2012年05月19日

金環日食

posted by JIEL STAFF at 23:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 杉山 郁子
この時期、この話題を出さずにはいられないでしょうという金環日食について書いてみようと思う。
名古屋はめっちゃ久しぶりだそうで、何でもこの前見られたのは平安時代だったらしい。これはもう“この前”とか“久しぶり”なんて言葉で言えるレベルのことではない。今生きているどんな長生きの方でも経験のないBig eventである。調査によると10人中8人が「見るつもりだ」と答えており、私が鑑賞メガネを買いたいと思いショッピングセンターに行った時には全て売り切れであった。名古屋の小・中学校では全生徒に鑑賞メガネを配っていると聞くが、小・中学生のいない家庭の人がそんなに購入しているのだろうか。私は、このBig eventにすでに乗り遅れてしまったようで少し悲しい。中学の教師をしている息子にも持ってないかと聞いたが、彼はさして興味もなさそうに生徒には配ったけど自分は持ってないとの返事だった。
金環日食を体感するには、直接見る以外にもいろいろあるとTVで盛んに言っている。クラッカーなどの小さな穴を通して下に置いて紙に映してみたり、木漏れ日を見るのもお勧めだそうだ。
TVでは何より安全で綺麗に見られるのは、TVの放映を見ることだとも言っている。確かにそうだろうが、やっぱり媒体に頼らず直接体感したい。
月曜の朝は曇りだというので「じゃあ直接見ても曇っているから大丈夫じゃないの」と言っていたら、ちょうどタイムリーにこれまたTVで可愛いお天気お姉さんが「曇りといっても正しく道具を使って見てください」と言っている。“昔は下敷きで見たのになぁ”なんて、これまた悔し紛れに呟いてみる。いっそのこと曇りが強くなって、みんなが見られたか見られていないか分からない程度になれば良いのに。心にこんな意地悪な思いがよぎってしまう。平安時代の人はどうやって見たんだろう。太陽が隠れるなんて不吉なことは恐怖で、誰も見ようとはしなかったんだろうなぁ… 今の私の参考にはならないなぁ…
いくら私が悔しがっても、あと二つ寝たら金環日食である。どうぞ皆さん楽しんでください。私も何とか体感できるように悪あがきしてみます。

2012年05月16日

あいさつひとつで…

posted by JIEL STAFF at 00:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 岡田 衣津子

私の勤務する専門学校は、学生の礼節を厳しく指導しなさいという方針である。授業の始業、終業のあいさつは、頭を下げる秒数やおじぎの角度まで決まっている。実際、教壇に立って、そのあいさつの様子をみると、そろい過ぎていてちょっと怖いような気持ちになるが、あいさつがきちんとできることは社会に出ても役に立つので、方針自体は間違ってはいないと思う。少しやりすぎな感じはしながらも、学校の方針にはむかう気は全くない。しかし、実際指導する側の教員がどれだけあいさつができているかというと…本当に学生を指導していいのか?と疑問に感じることがよくある。

あいさつしても全くこちらを見ないであいさつを返す人、中にはあいさつしている私を無視して通り過ぎる人もいる。私の声が小さくて聞こえないのかもしれないと思い、わざとらしいくらいに大きな声を出してみるが、結果は同じだ。「コミュニケーション・プロセス」の話を思い出すと、発信者が発信する記号は、相手に受信され、受信者の内的世界で解読され意味づけされるが、反応が返ってこないとなると、発信者はどうしていいのかわからない。まさか「私のあいさつ、聞こえましたか?」と確認するのはおかしいことだ。無視して通り過ぎる人は、実は役職者だったりするので、私のあいさつなど、とるに足らないものなのかもしれないが、無視される方にしてみればたかがあいさつでも気分がいいものではない。

先日、朝、エレベーター前で、他学科の教員に「おはようございます」とあいさつをした。しかし、その人は他の職員と話をしていたため、私の声は届いていないようで、あいさつを返してくれなかった。いつものことだと思う反面、少し悲しい気持ちになった。そんな一次感情から、だんだん「教員のくせにあいさつもできないのか!」と二次感情の怒りが起こってきた。私の心の中は穏やかではなかった。しかし、エレベーターを降りるとき、その教員が私に「素敵なお洋服ですね。私好きですよ。」と声をかけてくれた。私の心の中で、“あいさつもできない悪い教員”だったはずの人が、急に“素敵な先生”に変化した。あまりの急展開に「そ、そ、そうですか?ありがとうございます…」とうろたえながら答えることしかできなかった。心の中で思ったことをオープンにしないと、ネガティブな感情はどんどんふくらんでいくけれど、相手からのちょっとした声かけで、ふっとその感情が消えてなくなっていく…やっぱりコミュニケーションって大事!と改めて気づかせてもらった。

あいさつを返してくれないから嫌な人だと心の中で決めつけていた私、あいさつを無視して通り過ぎる人、どっちもどっちだなぁと思う。しかしあいさつひとつでいろいろな感情が起こってくるのだから、やっぱりすがすがしく気持ちのいいあいさつをしたいものである。

 

2012年05月08日

異なる人たちと共に生きる

posted by JIEL STAFF at 14:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 水野 節子
南山大学人間関係研究センターが年に1回「組織開発ラボラトリー」という講座を開催しています。今年は2月に山梨県清里の清泉寮で開催され、ゲシュタルト組織開発を実際にやってみる体験を通じて学びました。具体的には参加者がグループに分かれて、それぞれコンサルタントチームとクライアントチームの両方を体験し、外側から組織を診断し介入する体験と、逆に診断・介入される体験を全員がしました。

それから、3ヶ月近くが経ち、記憶は徐々に薄らいでいます。しかし、そのときの体験が心に残り、そのときにいっしょにかかわった人たちの話をきいて「あのとき何が起こったか」を今も探っている人がいます。1つの出来事に10人がかかわれば、その出来事の見方は十人十色。立場や役割が違い、感じ方や考え方も違いますから、それは当たり前のことです。

そうわかってはいるものの、自分とは全く異なる立場で同じ出来事を体験した人の話をきくと、正反対の見方をしていることもあり驚きます。なぜ驚くかというと、その正反対の見方も現実だからです。人間は多様な存在であり、同じ出来事を共有していても、それをどう思い、どう考えているかをきちんと開示して話し合わなければ、同じ現実を生きることは難しいのだと実感させられます。

フィードバックは「自分の見えたことを伝えるもので、良い・悪いの評価ではない」とよく言いますが、まさにそういうことだと思います。「良い・悪い」の判断は、その人が自分の見方のなかでするものであり、決してそれが正解でもなければ、真実でもありません。もし、自分の見方を声高に主張して異論や反論を認めない人がいたら、少なくともその人の前では本当に自分が思っていることを言わない人が増えるだけでしょう。

みんなでいっしょに組織や仕事を動かすためには、合意形成も必要です。しかし一方で、自分や他のメンバー1人ひとりの様子や感じに関心をもち、きき合える関係になることも大切です。私はそんな異なる存在である人間が、お互いを認め合って共に生きることに関心があります。

2012年05月01日

プロセス論

posted by JIEL STAFF at 22:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林 芳孝

今年度も津村先生のプロセス論に出させていただいています。

「人間関係プロセス論」という科目名ですが、実際に学生さんが取り組んでいるのは「ファシリテーター・トレーニング」です。学生さんが交代でファシリテーター役となり、与えられたひとつの課題についてグループの中でファシリテートする、話し合いの時間が終わった後にメンバーからフィードバックをもらう、そういった構造です。

 履修する学生は2年生以上で、すでに1年次に「人間関係概論」を履修し、ラボラトリー方式の体験学習を体験している人がほとんどです。ですから、コンテントとプロセスの概念的な理解も、体験もしています。その学生さんたちがファシリテーターを体験する、実践的な、というか日常に活かせる内容になっているのがミソといえます。

 学生さんは戸惑いを見せたり、むずかしさを訴えます。それは、ここで扱うファシリテーションがリーダー役や司会役という役割ではないという認識がある、それではファシリテーターは何を観、いつ、だれに、どのようにかかわるか、それを模索し、行動に移す(あるいは移さない)、それでも絶えることなくグループのプロセスは動いていく、その渦中にどっぷり浸からざるを得ない状況にもがいているようにも見えます。

 学生さんたちはプロセスを観ようと懸命です。でも、なぜプロセスを観るのか。なぜプロセスを意識したファシリテーションをここで学ぼうとしているのか、この授業でなにを学び、どう日常に活かすことを期待されているのか。

 ただ方法や技術としてのファシリテーションを学ぶ場ではない、私はそう確信しています。ここで学ぶファシリテーションのその基底にあるものはなにか、私たちがプロセスを扱い、そこにかかわることにはどういう意味があるのか。そのこともともに考え、ともに行動にし、ともに成長していく、そんな場にしていければ、と思っています。

2012年04月26日

障がい者を支援するという仕事

posted by JIEL STAFF at 19:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 山岸 裕


障がいを持つ方の支援の難しさと、障がいを持つ人自身とその家族といった当事者の方々の大変さは理解しつつ、ここでは、違った面から障がいのある人を支援するという仕事について、そういう仕事をしていないからこその軽々しさから、思い切って書いてみたい。

 

うちの嫁さんは、障害者の福祉施設で働いている。その施設は、知的障がい者の方、身体障害者の方、精神障がい者の方、ある意味すべての種類の障がいを持った人が利用している。全ての種類の障がい者を支援している施設は珍しいそうだ。

あるとき、知りあった女性が、たまたま勤めているのが知的障がい者の施設で、いま、そこを辞めようかどうしようか悩んでいるとのこと。

でも、いまの仕事は好きだという。理由は、知的障がい者の支援者として働くことは、面白い、そして、気づかされると言う。

そこで、嫁さんに乱暴ながら無理やりきいてみた。3つの障害のうち、嫁さんにとってどの障がい者の支援が一番よいか?好きか?と。

すぐに答えが返ってきた。知的障がいの人がいいと。

なぜ?ときくと、面白い、気づかされる、とのこと。件の女性と同じだ。

 

そこで、さらに詳しく、その面白さと、気づかされるということの内容を、きいてみた。

面白さは、予想もしなかった反応がかえってくる驚きであり、また、思ってもいなかったことが、実は出来るということを発見する面白さらしい。つまり、かかわることの面白さとでも言えばいいのか。

そして、気づかされるといのは、知的障がいのある人は、自分の感情を素直に表現する。その表現は言葉がままならないために「ギャー」であったりするが。

嫌なものは嫌、好きなものは好きで、自分の感情の取り扱いがはっきりしていて、それをシンプルに表現してくるらしい。

ふりかえって、自分の普段のありようも見てみると、意外と、嫌なものを我慢していたりする。周りのことを考えて、はたまた、常識にしばられて。

仕事を通じて一緒にいると、そんな障がい者の方のありようと、自分のありようが自然と比較されて、自分の不自然な、自分の気持ちに正直でない、ありようが見えてきて、気づかされるらしい。

 

くしくも、障がい者支援の仕事にたずさわる2人の人間が、その仕事の大変さ、難しさという面でなく、面白さと気づきという別の面について、その感じていることが一致したことが、とても印象に残った出来事だった。

 

(障がいのある方に関係されている当事者の方の中には、上の「面白い」という表現に抵抗を感じる方もいるかもしれないことを承知の上でここに書かせてもらいました。なお、ここに書いた文章は、ぼくの関心で上に登場する2人の話を切り抜いたものであり、文責はすべてぼくにありますことを、念のために申し添えておきます。)