自分の職場でラボラトリー方式の体験学習を用いて、研修をしたいと思って南山大学の大学院に入学したのは2004年でした。
それから、何度も職場のトップに研修の話しをして、2011年から職場での研修が本格的に認められるようになりました。その後、無我夢中でこの3年間を過ごしてきました。この3年間には、JIELの皆さんにもいろいろとお手伝いをしてもらい、管理者研修も何度か実施して充実した3年間であったと思います。
しかし、ここにきて「私がこの職場からいなくなったらこの研修はどうなるのだろう」と思い、継続していくためにも職場内で後継者を作りたいということが次の私の目標になりました。そのためにこの1年間は職場での話し合いを行い、どうすることがいいのかを模索してきました。でも、なかなか思うようにことは進まず、少し落ち込むようになり、ネガティブになっていました。
そのような状況の中、この間、JIELの忘年会があり、津村先生や次の自主講座での企画を岸田さんが提案している姿をみて、自分が恥ずかしくなりました。その時に感じたことは、できないことやうまくいかないことに愚痴をこぼして、嘆いてばかりいても仕方がないと思うようになりました。それに自分の自主講座の企画も特に新しいことがなく、もっと、参加者が「この研修に出たい」と思うような魅力的な企画をしないといけないと思うようになりました。
そこで、来年のブログでは自分のさまざま取り組みを取り上げていきたいと思います。これを読んでくれている皆さんが応援をしてくれたり、率直な意見をしてくれたらうれしいと思います。
2014年12月26日
2014年12月23日
2014年12月19日
いざという時のために
今日の名古屋は大変な雪でした。
20cm以上の積雪は都会の名古屋では滅多に味わえません。
天気予報でもここまでとは思っていなかったようで、気象予報士さんが謝っていました。
雪景色は綺麗なものですが、慣れない都会っ子は戸惑いが大きいものです。
雪でも安全に歩ける靴を持っている人も少ないでしょう。
我が夫は、どちらかというと用心深い人なので、今日の出勤はスノトレを履いていきました。
スキーにも行かなくなって久しいので、何年ぶりかの登場です。
交通機関もすぐに乱れてしまいます。
都市高速は閉鎖、セントレアもほとんど欠航になったようです。
もちろん市バスはほとんど遅れていましたし、運行を取りやめた路線もあったようです。
しかし、そんな状況の中でも真面目な日本人は、職場に向けて一歩ずつ歩みを進めていました。
私はラッキーにも今日は午前中に出かける予定がなかったので、雪景色を綺麗だと眺めていることができました。
ところで、私達は何年かに1回のことに、どのくらい備えておかないといけないのでしょうか?
断捨離では1年使わなかったものは処分するとも言います。
地震のために非常持ち出し袋を作り、雪のために安全な靴を用意し、水不足のためのバケツを仕舞い込み、自然災害以外のことでも病気や事故に備えて保険に入り、いざという時のために礼服や一張羅を用意しています。
その中には、手間などを考えたら馬鹿馬鹿しいようなこともあるように思います。
でも、私たちはその時困らないように準備しているのです。
これも勤勉で慎重な気質の日本人だからでしょうか。
ちょっと話は違いますが、今晩は南山大学吹奏楽団の定期演奏会でした。
少しゆっくり音楽でも楽しもうと出かけてきました。
彼らもまた、定期演奏会のために毎日練習をし続けていたのでしょう。
色々なことに対応できるように日々努力を重ねることも、非常事態や特別な時に柔軟に動けることも、どちらも人の大切な能力のように思います。
もうすぐ新年を迎えるこの時期に、自分はどのような日々を送りたいかを考えるのもいいかもしれません。
20cm以上の積雪は都会の名古屋では滅多に味わえません。
天気予報でもここまでとは思っていなかったようで、気象予報士さんが謝っていました。
雪景色は綺麗なものですが、慣れない都会っ子は戸惑いが大きいものです。
雪でも安全に歩ける靴を持っている人も少ないでしょう。
我が夫は、どちらかというと用心深い人なので、今日の出勤はスノトレを履いていきました。
スキーにも行かなくなって久しいので、何年ぶりかの登場です。
交通機関もすぐに乱れてしまいます。
都市高速は閉鎖、セントレアもほとんど欠航になったようです。
もちろん市バスはほとんど遅れていましたし、運行を取りやめた路線もあったようです。
しかし、そんな状況の中でも真面目な日本人は、職場に向けて一歩ずつ歩みを進めていました。
私はラッキーにも今日は午前中に出かける予定がなかったので、雪景色を綺麗だと眺めていることができました。
ところで、私達は何年かに1回のことに、どのくらい備えておかないといけないのでしょうか?
断捨離では1年使わなかったものは処分するとも言います。
地震のために非常持ち出し袋を作り、雪のために安全な靴を用意し、水不足のためのバケツを仕舞い込み、自然災害以外のことでも病気や事故に備えて保険に入り、いざという時のために礼服や一張羅を用意しています。
その中には、手間などを考えたら馬鹿馬鹿しいようなこともあるように思います。
でも、私たちはその時困らないように準備しているのです。
これも勤勉で慎重な気質の日本人だからでしょうか。
ちょっと話は違いますが、今晩は南山大学吹奏楽団の定期演奏会でした。
少しゆっくり音楽でも楽しもうと出かけてきました。
彼らもまた、定期演奏会のために毎日練習をし続けていたのでしょう。
色々なことに対応できるように日々努力を重ねることも、非常事態や特別な時に柔軟に動けることも、どちらも人の大切な能力のように思います。
もうすぐ新年を迎えるこの時期に、自分はどのような日々を送りたいかを考えるのもいいかもしれません。
2014年12月12日
マインドチェンジ
ものの見方や思考パターンを変えること。今年はいつもの自分の考え方を少し変えて、新しいことにトライしてみた。今までは「ちゃんとできるようになってから」「まだまだ自分は力不足」と、完璧な状態でないとやることをためらう傾向があった。中途半端な状態で引き受けるのは失礼だと「謙虚」なつもりだったが、できるようになってからやろうと思っていると、いつまでたっても半人前に留まってチャンスが巡ってこない。それに実は、できない理由を言い訳しているのかもしれない!?。トライしてみることで自分にいい意味でのプレッシャーをかけていくことにもなる。最近、ようやく少し考えを変えてとらえられるようになった。できるように力をつけていくことは大切。けれど、やってみる中で気
づくこともある。
そんなわけで挑戦したのが、全6回の英語の講座を受講することである。毎回課題が与えられ、次の回までにグループごとで準備を進めていく。最初のうちは日本語で進めていくが、途中から英語で表現をしていく。グループの話し合いについていくだけで四苦八苦の状態だった。英語という、使いこなせない足かせがあるだけでなく、さまざまな業界や仕事、経験をしているメンバーとの話し合いは、チームでひとつの課題を達成していく過程そのものがとても刺激的だった。
「わからない」という状態にどっぷりつかる感覚を久しぶりに味わった。日常の仕事はある程度経験知の中で対応していることを改めて実感した。新入社員が右も左もわからない感覚もこんな感じだったかなと思い出す。
メンバーでお互いに意見を出し合う、相手の意見を聞きながら、合意形成していく。関係づくりと課題達成を同時に取り組んでいく。課題はもう一つだったけれど、お互いに率直に語り合えたり、短いサイクルで毎回異なるメンバーで課題をこなしていく体験は、まさに体験学習の課題解決実習を体験している感覚だった。
講座は東京で開催されたので、グループの打ち合わせはSkypeを使うこともあった。便利ではあるが、やはり同じ場で顔を見ながら話すのとは異なる。発言が出遅れたり、相手の発言を充分に聴けた感覚がもてなくて、話し合いに参加している実感が薄くなる。でも、ときと場合に応じて、いろんな便利な道具や手段を活用するといいとも感じた。
パーフェクトでなくてもチャレンジしてみようという思いで臨んだが、わからないという感覚やできない自分がなんとももどかしい思いを味わったり、いろんなフィールドで、いろんな価値観をもって、柔軟に行動する素敵な仲間とも出会うことができた。ちょっと変わってみるのもいいかな。
づくこともある。
そんなわけで挑戦したのが、全6回の英語の講座を受講することである。毎回課題が与えられ、次の回までにグループごとで準備を進めていく。最初のうちは日本語で進めていくが、途中から英語で表現をしていく。グループの話し合いについていくだけで四苦八苦の状態だった。英語という、使いこなせない足かせがあるだけでなく、さまざまな業界や仕事、経験をしているメンバーとの話し合いは、チームでひとつの課題を達成していく過程そのものがとても刺激的だった。
「わからない」という状態にどっぷりつかる感覚を久しぶりに味わった。日常の仕事はある程度経験知の中で対応していることを改めて実感した。新入社員が右も左もわからない感覚もこんな感じだったかなと思い出す。
メンバーでお互いに意見を出し合う、相手の意見を聞きながら、合意形成していく。関係づくりと課題達成を同時に取り組んでいく。課題はもう一つだったけれど、お互いに率直に語り合えたり、短いサイクルで毎回異なるメンバーで課題をこなしていく体験は、まさに体験学習の課題解決実習を体験している感覚だった。
講座は東京で開催されたので、グループの打ち合わせはSkypeを使うこともあった。便利ではあるが、やはり同じ場で顔を見ながら話すのとは異なる。発言が出遅れたり、相手の発言を充分に聴けた感覚がもてなくて、話し合いに参加している実感が薄くなる。でも、ときと場合に応じて、いろんな便利な道具や手段を活用するといいとも感じた。
パーフェクトでなくてもチャレンジしてみようという思いで臨んだが、わからないという感覚やできない自分がなんとももどかしい思いを味わったり、いろんなフィールドで、いろんな価値観をもって、柔軟に行動する素敵な仲間とも出会うことができた。ちょっと変わってみるのもいいかな。
2014年12月01日
味わう
奥三河だったか、天竜川を超えた静岡県側だったか忘れました。廃校になった小学校をレストランにしているところがあるそうです。とくに特色のあるメニューがあるわけではありません。ですが、特色のあるレストランです。
夜。人がやってきます。皿が並べられます。客が食べます。普通に時間が過ぎます。普通でないのは、そこに明りがひとつもないことです。明かりがひとつもないため、客は真っ暗闇の中でフォークとナイフを動かします。困惑します。次第に慣れるのか、食べることに意識が向きます。やがて食に惹かれます。
「味わうとは、喜びに対する意識およびその意識を持続させる意図的な試みのこと」。今、私が読んでいる本に書いてあります、「習慣的に味わう人々は味わわない人々に比べて実際に幸せであり、全般的に人生に満足しており、楽観的であり、抑うつに陥ることが少ない」。とくに食事を味わうことについて書かれているわけではありません。「何かよい出来事(嬉しい出来事)に出会ったときには、立ち止まってそのことに注意してみる」。
暗闇の中で食事を摂ることがよい出来事かどうかはともかく、暗闇の中で食事をすることが、その時は立ち止まって食することに注意している、ということは間違いないと思います。すくなくとも視覚は遮断され、そのせいなのか残された聴覚、嗅覚、触覚、味覚が、それを補うかのように機能し始める。食を味わおうとする。
おそらくひとつの機能をあえて遮断までしなくても、私たちは私たちの持っている機能を十分に働かせ(あるいは、眠っている機能を奮い起させ)、そのものを、その体験を味わうことはできるのではないか、と思います。暗闇の中で食事をすることがよい出来事であると期待するならば、それを味わう体験をすることによって幸せと感じられる。であれば、暗闇の中でなくとも私たちは、その意識をもって意図的に試みることでそれを味わうこともできるのではないか、と思います。
ニューヨークには、真っ暗闇レストランがはやっているそうです。でも、その意図は知りません。
夜。人がやってきます。皿が並べられます。客が食べます。普通に時間が過ぎます。普通でないのは、そこに明りがひとつもないことです。明かりがひとつもないため、客は真っ暗闇の中でフォークとナイフを動かします。困惑します。次第に慣れるのか、食べることに意識が向きます。やがて食に惹かれます。
「味わうとは、喜びに対する意識およびその意識を持続させる意図的な試みのこと」。今、私が読んでいる本に書いてあります、「習慣的に味わう人々は味わわない人々に比べて実際に幸せであり、全般的に人生に満足しており、楽観的であり、抑うつに陥ることが少ない」。とくに食事を味わうことについて書かれているわけではありません。「何かよい出来事(嬉しい出来事)に出会ったときには、立ち止まってそのことに注意してみる」。
暗闇の中で食事を摂ることがよい出来事かどうかはともかく、暗闇の中で食事をすることが、その時は立ち止まって食することに注意している、ということは間違いないと思います。すくなくとも視覚は遮断され、そのせいなのか残された聴覚、嗅覚、触覚、味覚が、それを補うかのように機能し始める。食を味わおうとする。
おそらくひとつの機能をあえて遮断までしなくても、私たちは私たちの持っている機能を十分に働かせ(あるいは、眠っている機能を奮い起させ)、そのものを、その体験を味わうことはできるのではないか、と思います。暗闇の中で食事をすることがよい出来事であると期待するならば、それを味わう体験をすることによって幸せと感じられる。であれば、暗闇の中でなくとも私たちは、その意識をもって意図的に試みることでそれを味わうこともできるのではないか、と思います。
ニューヨークには、真っ暗闇レストランがはやっているそうです。でも、その意図は知りません。