うちには和風の庭がある。
草むしりが大変にならないように砂利を敷いてあるが、それでも、春になり夏が近づくにつれて庭には雑草がたくさん生えてくる。
この家を買うときに、嫁さんに庭掃除はあなたの担当よという約束で買ったのだが、正直、僕は草むしりが嫌いだ。
まず、雑草が伸びる季節は庭には蚊がたくさん飛んでいて、草むしりをしていると、耳元でプ〜ンって音をたてるわ、刺されて痒いわでおちおち草をむしってられない。
それよりもっと嫌なことがある。
この家の持ち主である僕は、庭に生えたある種の植物を雑草と呼んでひっこぬく。
雑草と呼ばれるものは、庭の邪魔ものとして問答無用で抜かれて命をたたれ、傷つけられる。
その一方で、苔などは庭の一部とされて大事にしている。
僕は、同じ生き物であるこの植物たちの中の、あるものを抜いて排除し、あるものを生かす。
この植物たちに、生死を分けるほど、いったいどんな違いがあるというのか。
結局は、この家の持ち主である僕の価値観に合うかどうかで区別されているだけである。
春などは、雑草と呼ぶものにも、かわいい可憐な小さな花をさかせているものもある。
ちょこっとしていて、ほんとうにかわいらしい。
寒い冬を生き延び、暖かな春を喜ぶように咲き始めた小さな花。
この花を咲かせている草も、かわいいなと思いながらも、結局は雑草として抜いてしまうのだが、そんなとき、複雑な気持ちになる。
そこで、少しでも自分の心が痛まないように、根っこを残してみたり、抜くときにごめんねって言ったりする。
それでも、小さな花をさかせた雑草はたくさん生えているので、いちいち心を痛めていては庭掃除にならない。
エイヤッと、心に蓋をして引き抜いていくうちに、徐々に何も感じなくなっていく。
こんな感じで草むしりをしているから、いつも終わったときには、すっきりした庭を見て気持ちいい反面、どこか心がモヤモヤして嫌な感じが残るのである。
植物を自分の価値観で勝手に区別する僕には、口では環境の多様性が人間社会には大事だなんてきれいごとを言いながらも、どこかで人間のことも区別・差別して、あるものは排除しようとする面があるのだと思う。
草むしりをしながら、僕はそんなことを考えてしまう。
私は、たくましい雑草が好きです。
どんな名前かも知らないけれど、黄色い小さな花を咲かせる
ベランダの鉢植えに生えてる雑草が好きです。
抜いても、抜いても生えてくる雑草が憎らしくもあり、
愛おしくもあり、私はそのときの気分で抜いたり
抜かなかったりしています。
先日、茨城大で授業をした際に、受講していた理系(生物学系)の学生さんにこんなことを言われました。
私が、「雑草と呼んでいるけど、小さくてとてもかわいらしいこの草を雑草と分類して抜いてしまう自分の価値観とはなんだろうか」とブログと同趣旨の話をしたところ、そうやってかわいいからということで抜かれることを免れた外来種が在来種を駆逐して生態系を変えてしまう」と。
なるほど、ほんとうにものの見方には色々とあるものだと更に深く考えさせられました。