2015年04月01日

土づくりから

posted by JIEL STAFF at 11:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林 芳孝
 何年か前に、思いつきで庭に枝豆の種を播きました。庭の花や木に水をやるくらいしかしたことがありません。庭の空いているところに播いただけです。数か月後、芽が出てきました。芽が出てくるとなんだか楽しくなるもので、可愛く愛おしくもなります。わが子は日に日に成長し、葉を広げ、花を咲かせ、実をつけました。結構な収穫量があり、その年はおいしく枝豆をビールとともに食べました。

 連作はよくない、と素人は勝手に思い、次の年はなにもしませんでした。

 それから数年後、げた箱から大根の種が出てきました。買ってきた油粕を土に混ぜ、説明書きにあったように畝を作り、種を播きました。1週間、10日と日は立ちましたが、一向に芽が現れません。今度のわが子は一筋縄ではいかないようで、そうなるとこれはなにかしないと育たないのだ、とわかります。まずは土づくりをしなければいけないのだろう、ではどうやったら土づくりができるのか、いろいろ調べているところです。

なにかを始める時の動機は様々です。自分が目指すところのものがあるから始めることもあるでしょう。そうせざるを得なくて始める場合もあるでしょう。他の選択肢がなかったり、必要にかられて始めたり、やらされるという時もあります。どんな動機からであれ、始めることにはエネルギーが必要となります。夢や目標に向かって消費するエネルギーは、エネルギーがエネルギーを再生産するようなところがあるように思います。たとえは変ですが、無駄になっていた減速時のエネルギーを再利用しようとしたハイブリッド・カーに似ている気がします。転じて自分の意志が(あるいは意志エネルギーが)伴わないと、気持ちや感情も萎えがちになり、意志のベクトルとは反対方向のベクトルが働いて、結局プラスのエネルギー量が減ることになる。この意志エネルギーを相乗的に、シナジー的に高めていくことはできるのか、できるとすればどうするか。

 4月1日をもって日本体験学習研究所は一般社団法人としてスタートを切りました。代表理事をはじめとしてそれぞれのメンバーがそれぞれのもつ個性や特長をもって法人化へと向かいました。エネルギーはその質や中身や量も人それぞれで、だからこそエネルギーが産み出すものが多彩な実をふくらませます。マイナス(と思われる)エネルギーも、それがエネルギーである限りプラスのベクトルへと作用させることもできます。そこに描くもの、ありたい姿、望む社会があり、そのために土づくりをし、畝をつくり、種を播き、育てる、育む。成長する時間を楽しめることも(そして、なかなか芽が現れないことも)またエネルギーに変え、向かっていく。

アボガドを食べた後、その種を植えました。もとはメキシコ産だから、この芽が出てきたらご愛敬です。

2015年03月01日

ダイバーシティ&インクルージョン

posted by JIEL STAFF at 11:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林 芳孝
 エレベーターに乗っている人たちがいる。そのエレベーターが故障かなにかで停まる。そこから脱出しなければならない。その時、集合体である単なる人の集まりからグループになる、という例をボスがときどき使います。 チームとはそのグループが複数あり、競争事態が起こると、集団として向かう共通の、あるいは共有する目標や方向をもち、競い合うチームとなる。

 高校生のとき、ラグビーをしていました。ラグビーは1チーム15人で行われる競技です。その15人は一人ひとり役割が異なります。スクラムの最前列で相手チームと御する人は、たいてい身体が大きく、重い人がなる。スクラムの中に入れられたボールをかきだすフッカーは、どちらかといえば小柄で身軽な人。ロックはおもに背が高く、ラインアウトのときにラインから投げ入れられたボールを飛び上がって取る。足が速い人はウィング、フルバックはパントがうまい人など、それぞれの人の役割が決まっています。一人ひとりの能力や技術、もっているもの、身体的や精神的なもの、個性を含めてポジションが決まる。一人ひとりは自分の役割がなにかを認識し、自分の技術を高めるためのトレーニングをします。その一つひとつが結束してチームとなり、勝利という目標に向かって動きます。試合中にだれかがつぶされることがある。その時は、他のだれかがその人の役割を担わなければならなくなる。自分の役割だけをこなしていればいい、というわけではありません。

 ダイバーシティということばが登場したのはいつからだったか、でも最近のことではないと思います。先日、南山大学人間関係センター主催「ダイバーシティ&インクルージョン」の講演会がありました。”visible”と”invisible”のことばが一番残っています。ジェンダーや肌の色や民族や宗教や、”visible”といえるだろうことは取り組みやすい(と思う)。”invisible”はどうか。

 組織には文化があります。組織に入ると、その文化に染まっていきます。新卒の人はそれほどではないかもしれませんが、中途で加わった人だと前職の組織の文化を体験しているため、染まることに馴染まなかったり、苦労したり、染まらないことで異質な扱いを受けるということもあるかもしれません。組織が目標を達成するために、組織の一人ひとりが同じ志向性をもって向かうことは、生産性、効率性、適時性などからしても大切な要素であることに疑いの余地はないと思います。組織という“細胞”に異質な刺激が与えられると、組織は活性化され、次元の異なる新たな細胞へと“進化”する可能性もあるように思います。

 この”invisible”といえる多様性。それは、女性の比率を増やすとかいったことばかりでなく、現に今ある組織がすでに多様な人で構成されているということからスタートすることなのかもしれません。そのためにできることはなにか。組織の中にいる人はどうあるか。組織をどうするか。いろいろ可能性があるように思います。

 故障したエレベーターから脱出すれば、チームはチームでなくなります。脱出するという偶発的その場しのぎ的ばかりでない目標。一人ひとりが活きる場。エレベーターを要しない組織。内包。

2015年02月04日

posted by JIEL STAFF at 21:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林 芳孝
winmail.dat
 安田通りを過ぎ、杁中を通って、走ります。なぜ乗っていたのか、どこへ向かっていたのか、
まったく覚えていませんが、市電の終着駅は八事でした。

 市電が廃線になると、そこへは栄町のオリエンタル中村の西側にある停留所から50番の妙見町行
きバスで行きます。当時、英検などの資格試験はよくそこで催されていました。帰途、バスの中で
立つお兄さんのジャケットに着けられていた徽章が南山大学のもので、かっこいいなあ、と思った
ことを覚えています。

 南山短期大学には自転車で通いました。きつかったのは、いりなかからの坂とわかちあいでの
フィードバックだったことを覚えています。人間関係研究センターはその年をもって大学へと移行
することになっていたため、南短でのセンター最後の受講生となりました。

 今、そこからのスタートを感慨深く思います。なにかに引きつけられるように、なにかに誘われ
るように、導かれるように、そこに呼ばれ、そこで師と出会いました。

 最初の講座で師と出会ったことを、よろこばしく思っています。そして、この7日、8日の講座
で師が一区切りをつけるその場にいることを、うれしく思っています。

 星野欣生先生。心より感謝申し上げます。ありがとうございます。

2015年02月02日

みいつけた!

posted by JIEL STAFF at 16:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林 芳孝

 時効といっていいと思います。

NHKでの選挙のための政見放送は、同じ映像が何度も繰り返し放映されます。少々うんざり。期日前投票をしてしまっていることもあり、テレビのチャンネルを換えました。

それはもう新しい世界。NHKの教育テレビです。朝なので、どれも子ども向けの内容です。子ども向けの内容ですが、制作にかけるおとなの熱意は半端ではありません。

「デザインあ」。いっぱいデザインが出てきます。デザインすることのおもしろさや楽しさが伝わってきます。ことばにしなくても、ことばに頼らなくても伝わるものがある。あつい。

「ピタゴラスイッチ」。よくもまあこんなユニークな装置を思いつき、人を惹きつけさせるのか。目がテレビに釘づけで、箸が止まったままになります。その後、オオーッと必ず声が出ている自分がいる。すばらしい。

「みいつけた!」。今のところ、これが一番好き。とくに「スイちゃん」がカワイイ。いすのコッシーとサボテンのサボさんのやりとりに心温まる。そして、オフロスキーの歌う「じだいげきだよオフロスキー」。観ていると、自然と自分も踊っている。たのしい。

近ごろ“きな臭い”ことが多い世の中になっているように思います。政府がクールジャパン戦略を講じているなら、こうした良質なものをどんどん国外に発信することも、世界の子どもたち、そしておとなの心も届き、ひびくことになるのではないのかな、と思います。萎えていたり、病んでいたり、苦しんでいたりする子どもたちが、少しでも心の豊かさを感じられるかもしれない。

やがてその子たちが、おとなになります。

2015年01月31日

ハリハリ漬け

posted by JIEL STAFF at 09:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林 芳孝

 半分あれば十分。だけど、まるごと買ったほうが安くなる。そんなものがたくさんあります。そのほうが安いと思って買うのだけれど、買った後で後悔する、こんなに買っちゃってどうするの?って。

 ダイコンもそのひとつ。半分あれば味噌汁にしたって、大根おろしにしたってそれなりに事足ります。大家族でもない限り丸ごと一本すぐに使い切ることはない。ダイコンは日を追うごとに干からびてやせ細っていく。

 そうはいっても一本買ってしまうダイコン、どうするの?っていうわけで最近はこんなこと、してます。

 2ミリ程度に切り、竹かごに並べます。それを日中、冬の太陽に預けます。夜は家のなかに戻し、明るくなってまたお日様に。5〜6日経ったら、お湯を沸かして汚れやほこりを取り除き、ボールへ。鍋に酢、しょうゆ、酒、砂糖、そしてあれば昆布をいれてもいいですが、本だしでもいけますので、それを煮立てます。ボールに入れてある天日干ししたダイコンにしょうがと鷹の爪を入れ、先ほど煮立たせたものを加えます。1日もすればハリハリ漬けの完成です。そこそこおいしくいただけます。

 早い話、まるごと買ったほうが安上がりのように思えても、半分だけ買ったほうが結局は安い、というお話です。でも、楽しみと喜びは増えます。

2015年01月01日

お福分け

posted by JIEL STAFF at 10:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林 芳孝

 いつの頃からだったか忘れました。たまたまチャンネルをいじって出てきたのが、その番組でした。それは、再放送だったので、おそらくだいぶ前から放送されていたものだと思います。

 イギリス人の、自然とともに生活する姿を描いた番組です。イギリスの高貴な家に生まれた彼女は、その生活に疑問をもち、イギリスの地を離れます。インドなどを訪れた後、日本に辿り着き、現在は京都の大原で暮らしています。番組は、彼女の日々の生活をそのまま映します。築百年以上にもなる古民家の庭でさまざまなハーブを育て、そのハープを使って料理をつくったり、化粧品や防虫剤、風邪の予防薬もこしらえます。大原に流れる空気とともに、彼女のエッセイがところどころ、彼女の英語の朗読で読まれます。彼女の生活観、人生観がそのやさしいことばのなかにちりばめられ、輝きます。

 ベニシア・スタンリー・スミス(Venetia Stanley-Smith)さん。「猫のしっぽ カエルの手」。評判がよかったのか、大原のご自宅まで訪れる人が増え、それがきっかけかなのか知りませんが、2013年に放送は終了しました。

 私が彼女と出会ったのは、ついこの間です。その時が、私が出会う時だったのだろうと思います。

 「自分に与えられたものを楽しめることが、本当の豊かさだと思います」と彼女は言いました(「菜種梅雨」)。その一文を拝借し、今年の年賀状に使わせてもらいました。

 諍わず、心穏やかに、与えられるものに身を置き、楽しむ。その豊かさを、今日出会う人にお福分けできたら。その一年の初日です。

2014年12月01日

味わう

posted by JIEL STAFF at 22:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林 芳孝
 奥三河だったか、天竜川を超えた静岡県側だったか忘れました。廃校になった小学校をレストランにしているところがあるそうです。とくに特色のあるメニューがあるわけではありません。ですが、特色のあるレストランです。

 夜。人がやってきます。皿が並べられます。客が食べます。普通に時間が過ぎます。普通でないのは、そこに明りがひとつもないことです。明かりがひとつもないため、客は真っ暗闇の中でフォークとナイフを動かします。困惑します。次第に慣れるのか、食べることに意識が向きます。やがて食に惹かれます。

 「味わうとは、喜びに対する意識およびその意識を持続させる意図的な試みのこと」。今、私が読んでいる本に書いてあります、「習慣的に味わう人々は味わわない人々に比べて実際に幸せであり、全般的に人生に満足しており、楽観的であり、抑うつに陥ることが少ない」。とくに食事を味わうことについて書かれているわけではありません。「何かよい出来事(嬉しい出来事)に出会ったときには、立ち止まってそのことに注意してみる」。

 暗闇の中で食事を摂ることがよい出来事かどうかはともかく、暗闇の中で食事をすることが、その時は立ち止まって食することに注意している、ということは間違いないと思います。すくなくとも視覚は遮断され、そのせいなのか残された聴覚、嗅覚、触覚、味覚が、それを補うかのように機能し始める。食を味わおうとする。

 おそらくひとつの機能をあえて遮断までしなくても、私たちは私たちの持っている機能を十分に働かせ(あるいは、眠っている機能を奮い起させ)、そのものを、その体験を味わうことはできるのではないか、と思います。暗闇の中で食事をすることがよい出来事であると期待するならば、それを味わう体験をすることによって幸せと感じられる。であれば、暗闇の中でなくとも私たちは、その意識をもって意図的に試みることでそれを味わうこともできるのではないか、と思います。

 ニューヨークには、真っ暗闇レストランがはやっているそうです。でも、その意図は知りません。

2014年11月03日

やもり

posted by JIEL STAFF at 21:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林 芳孝
 寝ようと思って、部屋の電気を点けた。壁になにやら得体のしれないものが…。ん?とかげ?でも、あのギラギラしたてかりがない。わかった、やもりだ。

 やもりは害虫を食べてくれるので、「守宮」と書いたり、「家守」と書いたりする。でも、夜に突然顔を合わせると、こちらはあまりいい気がしない。

 たぶん、あちらもいい気がしないのだろう、見ていると動かないのに、ちょっと目を離すと少し動いている。また目を離すと、別のところに。「だるまさんがころんだ」をしているよう。

 ふとんに入り、寝ようとするが、なんだか寝つけない。「だるまさんがころんだ」をしているときはいいけれど、だるまさんが寝てしまった間にあいつが枕元にやってきて、耳たぶを噛んだらどうしよう、と思ってしまう。そうこうして朝がきたら、あいつはいなくなっていた。

 夜になると、秋の虫が鳴く。その鳴き声のなかに、いつもの年にはきかないような「チッ、チッ、チッ」と鳴く声。あれはやもりが鳴いているのかな。どうにも無碍にして遊んだやらなかったから鳴いているのかな。

 だるまさん 遊ばずに行き 床に行き 家守は見ずや 我が袖にす

2014年11月01日

後悔

posted by JIEL STAFF at 21:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林 芳孝
 最近読んだ本に、歳をとると後悔することが少なくなる、と書かれていました。人生の残りの時間が少なくなってきて、後悔しても仕方がない、と思うからでしょうか。後悔することは、若いということ、とも書いてあります。

 「我、事において後悔せず」といったのは、宮本武蔵。先の本の説に照らせば、このことばを発したときの武蔵は高齢だったのかな、と思って調べてみました。高齢とはいえなかったですが、病に伏せ、おそらく死を覚悟していたころのことばのようです。

 剣の道を極めた武蔵は、ものごとに執着することから離れ、その域から突き抜けた、達観したことで後悔ということからも解放された、と初めてこのことばを知ったとき、思いました。悔いを残さないまで事にあたったのか、事にあたっても悔いを悔いとは思わないほどの精神性をもったのか、悔いはしてもそれを次の事にあたる肥やしとして活かしたのか、はたまた死期が迫っていたからなのか、…。いろいろの解釈が考えられそうですが、武蔵に会ったことがないので事の真意はわかりません。

 霜降も過ぎ、来年の手帳を買いました。買った手帳に今年の名言集が載っていました。

「お前、一年前の悩み言える?」。

 武蔵には悪いけれど、後悔とは違うけれど、わたしにはこちらのほうがなんだかすっきり入ってきます。今も後悔はします。それはまだ若い、ということにしておきます。

2014年10月01日

愛燦々と

posted by JIEL STAFF at 13:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林 芳孝
 「雨 潸々(さんさん)と この身に落ちて」と美空ひばりが歌ったのは、「愛燦々」。「愛燦々」は、小椋佳が作詞作曲をしました。その小椋佳が生前葬コンサートをした、というニュースを観ました。

 小椋佳。1944年生まれなので70歳。70歳といえば古希。古希は、人生七十古来稀なり、と詠った杜甫の詩に由来しています。小椋佳も古希を迎え、生前葬コンサートを行うことにしたのでしょう。

 「雨 潸々(さんさん)と この身に落ちて」のフレーズは、「わずかばかりの運の悪さを 恨んだりして」と続きます。

 NHKの朝ドラ「花子とアン」は、ここ10年の朝ドラで1番の視聴率をとったそうです。私も観られるときにはできる限り観ました。なにがおもしろいのだろうと思うと、主役の村岡花子のまっすぐな生き方も素敵ですが、脇役とよんでいいのかまわりに登場する人物が、その人間模様がおもしろい。ドラマを引き立てていると思います。憲兵だったあにやんが敗戦を迎えたときの苦悩、北海道で貧しい生活を強いられ、おねえやんをいつも羨ましく思っていた妹の心、意志に反し石炭王に嫁ぎ、その後駆け落ちをした腹心の友の決心、…。駆け落ちされた時の石炭王の人間臭さも、少々鼻につく作家の女史の高慢ちきな振る舞いも、それぞれの人がその時代をその人なりに一所懸命生きていたのだな、と思え、それが主役を引き立たせる。

 「神は天にあり 世はすべてこともなし」。「赤毛のアン」の第38章に出てきます。原文は”God’s in His heaven, All’s right with the world”です。「神は天にいます。世の中のすべてのことは正しい」とでもなりますか。この世で起こっていることなんて、すべて神の差配よ、などといってしまうとお叱りを受けるかもしれません。

 わずかばかりの運の悪さは、たぶん欲得から湧き出てくる人間の情感であって、神からすればすべてのことは正しい。ある時に、あるべくして、ある。すべてこともなし。でも、だから人間はおもしろくなる。

 「それでも過去達は 優しく睫毛に憩う」と、「愛燦々」は続きます。「人生って 嬉しいものですね」と思えるようになるのは、古希になるくらいの歳かもしれません。だから、おもしろい。

2014年09月01日

ひと生の経験

posted by JIEL STAFF at 18:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林 芳孝
 「あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ〜♪」と山口百恵が歌ったのも今は昔。

 先日、つけっ放しのラジオから流れてきたのは山口百恵特集の「ひと夏の経験」。なつかしいなあ、と思いながらふと思う、「ひと夏」ってなに?夏にひとつ、ふたつ、っていうのがあるの?

 今年の夏は異常気象。確かに暑い日もあったけれど、今年に限って昼日中に水風呂に入る日は一日もなかった。ミンミンゼミやアブラゼミの声を聞いて暑さが増すことはあったけれど、ハテ、ツクツクボウシは鳴いたっけな、と思うと、季節の入れ替わりをきちんと感じないままに、秋の虫の声を聞きながら寝床についている。これじゃ、「ひと夏」は終わっていない。

 百恵さんが歌うように、自分の一番大切なものをあげられるくらいのが「ひと夏」であって、それは春ではなく、秋でもなく、冬でもない。やっぱりそれは夏なんだ。ツクツクボウシが鳴いていないのに、夏を終わらせてはいけない。

 人生も同じなのかな、と思う。ツクツクボウシが鳴いていないのに、夏を終わらせてはいけない。一番大切なものを小さな胸の奥にしまっておくだけでは、ツクツクボウシは鳴きはじめられない。もし一生を「ひと生」と呼ばせるなら、「ひと生の経験」ができる。ツクツクボウシに出番を待たせては、ツクツクボウシに申し訳ない。

2014年08月02日

FTS(ファシリテータートレーニングセッション)

posted by JIEL STAFF at 07:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林 芳孝
 集まったのは、M3が1名、M2が2名、M1が6名、そして現役学部生が4名の13名です。FTSが始まりました。

 大学院の授業で学部生に声をかけるのもすごいことですが、2泊3日の時間と宿泊費用を納めても参加しようとする学部生にも頭が下がります。また、この4名が元気がいい。こうした授業の構造に初めて参加する人がいることもあり、活きのいい学部生を活かそうという思いがあったと思いますし、学部生にとっても社会人の間でもまれる経験を味わってもらおうという考えもあったのではないか、と思います。

 ファシリテーション・トレーニング・セッション(FTS)という実践的な授業が、他の大学院でも行われているかどうかはわかりませんが、知識だけでなく、行動や思考や感情にも刺激や変容をもたらすような内容の授業はそう多くはないのではないか、と思います。他の2人と合わせて今年で3年目となる小姑・小舅は、今年も健在です。

 10セッションのファシリテーター役とオブザーバー役を決めます。50分のセッション、25分のふりかえり用紙記入、1時間のフィードバック(クリティーク)タイム、これが朝から夜まで3日間で10セッション。とくに初めてファシリテーターを体験する院生の方には不安と緊張の連続ですが、小舅にとっても毎回のセッションの記録を取り、その後にフィードバックをする、という“苦行”です。

 “苦行”ではありますが、苦役ではありません。苦悩はありますが、苦痛ではありません。小舅は小舅なりに“今、ここ”にいて、体験学習の循環過程を回そうと中性脂肪を燃焼させて知恵熱をあげます。

 そして人は、最善を尽くしている。その人は、その人の最善を尽くしているから、技術や経験の多さだけではないものが伝わり、伝えられ、それが総勢17名のグループの変容を、成長を創っていく。Tグループとしての非日常のセッションは、そこから飛び立ち、半日常の17名の関係性を深化させる。そこのダイナミックスが好きですし、日常へ飛び込んでいく確信と勇気と希望へとつながっていくのだろう、と思います。

 ボスにとっては、これが最後のFTSになるかもしれません。最後に涙の粒が光るのは、鎖骨にあるチタンの疼きだけではなかったと思います。履修した皆さんからカードをいただいたのも、初めての体験でした。「話し終わった後のドヤ顔と、オブザーバーなのに反応しまくるところがおもしろくてすきです(笑)」って、どんなんや、ひな!(ドヤ顔)。

2014年06月29日

雑穀ご飯

posted by JIEL STAFF at 21:00 | Comment(3) | TrackBack(0) | 林 芳孝
昨年健康診断を受けた病院でコレステロール値が高い、と指摘されました。
病院からコレステロール値を下げる薬をもらって一年。今年は別の病院の健診を受けたところ、昨年と同様コレステロール値が高い。さらにこのまま10年も経つと腎臓透析かもよ、と脅され(?)ました。また薬が出されるのかと思ったら、今度のドクターは「薬は出しません、とにかくやせなさい。そのために炭水化物と肉類をひかえなさい」とのこと。こういう医者のほうがなんだか信用がおけます。それ以来、家でご飯を炊くのをやめました。肉を買ってくるのをやめました。そんな生活を始めて1カ月。4キロほどの体重が減りました。人からは、やせたねぇ、といわれるようになったのと同時に、最近頭が回ってないよ、というご意見も。聞くところによると、やはり脳には糖分は必要で、でもそれはお菓子などを食べても摂取することはできず、やはり炭水化物から得られるものなのだそうで。そこで、せめてお昼におにぎり1個くらいは買って食べることにしました。
そんなことを友だちに話したところ、だったら家でご飯を炊けばいい、炊くときに雑穀を加えて炊く、それをおにぎりにすればいい、というアドバイス。ただし、どうせおにぎりをにぎるなら、塩もいい塩を買いなさい、どうせその年くらいになったら大食いはしないので、おいしいものをちょっとずつ食べるほうがいい、塩もいいものを、というご高見。いい塩って?と聞いたら、塩にもいろいろあるんですね、お勧めの「海の○」という“ふつう”の塩と比べたら数段お高い塩を買い求めました。雑穀を入れて炊いたご飯は赤飯のような色で炊きあがります。それに「海の○」でおにぎりにし、ラップにくるみ、冷凍庫に入れておきます。米が乾燥してカサカサになるんじゃないか、と思ったのですが、翌日冷凍庫から出して自然解凍すれば、昼ころにはもとに戻ります。それに海苔を巻いて食べます。コレステロール値はまた標準値を超えているのですが、「今まで何十年もかかって積み上げてきた値がそんなに簡単にもどるわけないじゃない」といわれると、確かにそのとおり。体重も4キロ減ってからはそれを前後に増えたり減ったりでさらなる進展なし。頭の回転は前よりもさらに鈍くなったような気がして…。
とりあえず3カ月。もうしばらくは続けてみます。だれか肉料理に誘って〜!

2014年06月02日

あをによし

posted by JIEL STAFF at 21:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林 芳孝
やまとは国のまほろば たたなづく青垣 山ごもれる やまとしうるはし

 ボスとともにあをによし奈良に行ってきました。

 畝傍山(うねびやま)は、耳成山(みみなしやま)、天香久山(あまのかぐやま)と合わせて大和三山のひとつです。その畝傍山の近くに宿をとりました。

 畝傍山は三山のうちでは一番高く、199メートルあります。東に神武天皇陵、南西に安寧天皇陵、南に懿徳(いとく)天皇陵、そして南東に橿原神宮を擁している、その橿原神宮にはこれまで何回か参拝をしましたし、朝のラジオ体操にも参加したりしました。

 今回は思い立って畝傍山を一周してみようと思い、朝5時30分過ぎにホテル出立。地図なく当てもなく歩き始めます。橿原神宮あたりは木々が深く、早朝であることも手伝ってとても気分がいい。ここらあたりで曲がったほうがいいかと思ったところが神武天皇陵。陵に進むと途中でなにやらうっそうとした小道を発見。迷わず歩を進めました。道はところどころぬかるんでいたりしましたが、木漏れ日にうぐいすの声が重なり、気分は上。しばらくして木立を抜け、田園風景となります。左手には畝傍の山。沿うように続くひょっとしたら行き止まりかも、と思う小道を歩いては車道に出るを繰り返し、安寧天皇陵。懿徳天皇陵を過ぎれば以前来たことがある道とわかり、最後に橿原神宮にお参りをして約1時間半。

 あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり

 ワクワク感とドキドキ感は、にほふがごとく盛りになる、あおによし奈良の都の小冒険です。

2014年05月01日

フライパン

posted by JIEL STAFF at 11:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林 芳孝

 内発的か、外発的かといえば、外発的です。

 うちのフライパンは長年の疲労からか、柄の部分がぐらぐらし、炒めものをするために柄をもってふろうとするとパンがぶらぶらゆれます。これではどうにもやりにくい。でも、まあそれほど困るほどのことでもない。使う段になって、これは使いづらいな、買い替えなくちゃな、とは思うけれど、それを目的に買い物に行くことはありませんでした。

この4月からの消費税アップという外発的要因は、今のうちに買っておくものはないかと血眼にならせるには十分でした。それだけを目的にいろいろ店をあたります。

フライパンといってもいろいろあるんですね。大きさはともかく、なんだかコーティングだとか、底辺が中華鍋のように丸いものや広いもの、値段も1,000円ほどのものから数千円するものまで様々です。こういう時のインターネットは便利です。現在使っている人の評価を検索します。すると、けっこう鉄製の評価が高い。鉄製は重いのでふりにくさはありますが、長持ちするし、鉄分を含んでいます。これはいいかも、と思って店で探し始めると、鉄製のフライパンは並んでいません。「金物屋さんに行けばあるんじゃない?」と人に教えられましたが、その金物屋さんは昭和遺産になりつつあって見つけられません。インターネットで探してみると、「魔法のフライパン」なるものがある。どんなんかな〜と見てみると、よさそう。でも値段は高く、それよりも納品まで30カ月!大人気商品です。さすがに30ヵ月間、ぐらぐらのフライパンを使い続ける気にはなれず、他をあたります。

続けてインターネットで探します。すると、私の家から近いところに業務用のフライパンを売っている店を発見。のこのこ出かけてみました。ずっしり重い。こんなのふれるかな、というのと、業務用なので柄の部分が鉄のまま。プロの料理人はそこをタオルかなにかでくるんで使うのでしょうが、家で使うには面倒。で、カタログを見せてもらい、柄が木でつくられているものを取り寄せることにしました。値段もそこそこですが、一生ものと思えばいいか、と。

鉄製のフライパンは洗剤で洗わなくていいんですね、知りませんでした。ずっしり重いですが、気に入っています。

優柔不断な私には、外発的な要因が背中を押してくれて動けることもあり、それはありがたいことです。内発的な面からすると底にくすぶっているものはあるようだけれど、それがマグマとなって噴火するまでにはいたっていない、ということがままあります。それがなんらかの外発的な出来事が刺激となり、誘発されて動き出す。

そう考えてみると、自分のなかにくすぶっているものを揺り起こし、活性化させる刺激に向けて意識を張る、動いてみて自分自身を気づかせる、ということもできそうです。秘めたもの、内にあるもの、自分ではまだ気づいていなかったものを、自ら、あるいは自らではないとしても外発の起爆に触れる、そして顕在化させる。体験することから学ぶこと、気づくことって、楽しいです。

2014年04月05日

さくらさくさくらちるさくら

posted by JIEL STAFF at 11:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林 芳孝

 おそらく英語だとすべて”fall”になるのではないか、と思います。でも、日本語は違います。

さくらは「散る」。つばきは「落ちる」。うめは「こぼれる」。ぼたんは「くずれる」。きくは「舞う」。

移り変わる四季に繊細に反応して、そこに起こっていることをありのままに表現しています。しかし、花が開くときはすべて「咲く」なのに、花のいのちが絶えるときにはそれぞれの表現が異なっています。私たちの心象は、はかないものにあわれを思い、見たものに対する思いにいのちを宿そうとしているように感じます。花そのものは時季を終え、またのいのちは翌年にしか出会いませんが、そのいのちは果てることなく、根や、茎や、葉がようようとつないでいきます。その全体がひとつのいのちとして脈々と生を育んでいきます。

庭のチューリップの花が咲き始めました。チューリップの場合は、「ひらく」がいいかな、「脱ぐ」がいいかな。3年目のチューリップです。

2014年04月02日

体験学習ファシリテーター・セミナー

posted by JIEL STAFF at 10:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林 芳孝

 321日から23日までの3日間、体験学習ファシリテーター・セミナーを開催しました。

 この時期ならではの人事異動であいにく参加できなくなった方もいらっしゃいましたが、人数が少なかったこともあったのでしょう、濃密な時間が過ごせた、と自負しています(手前みそ!)。経験者あり、初心者ありの多様多彩な状況のなかで、とくに初心者の方は右も左もわからないうちにあれをやれ、これをやれと急かされて、さぞとまどわれたことだろうと思います。申し訳ありませんでした。しかし、だからこそのラボラトリーなのだろう、と思います(言い訳!)。参加された皆さんは、経験の差こそあれ、皆さんなんらかの形でご自身の分野や職域をなんとかしたい、そこの人たちが自主的自発的に動けるような支えになりたい、まさにファシリテートしたい、という思いの熱さが空気をつくり、互いに育てあう環境へとつながったのだろうと思います。

 かくいう私も、今回の体験は今までの自分とは違った自分を感じることがありました。それは、皆さんがチャレンジされた実習とそのファシリテーションによる自分のかかわりや作成したものから感じたり、気づいたことがあります。皆さんがファシリテーター役を終え、それに対するフィードバックをする時間をもちましたが、フィードバックはファシリテーター役の人に伝えることばかりでなく、私自身がフィードバックすることから多く学ぶことがありました。

 毎回お昼は全員でてんぷら、中華、洋食とごいっしょできたのも楽しいひと時でした。ただ、夜に一献傾けながらの時間がなかったのが心残りでしたが…。皆さん、どうぞご自身の現場でご活躍を!

2014年04月01日

さくら

posted by JIEL STAFF at 10:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林 芳孝

 日本人が桜にひとしおの親しみを感じるのは、いろいろな理由があると思います。

 今年の冬は、例年に比べて寒かったような気がします。名古屋では3月に入っても雪が降った日がありました。冬のきんとした寒さには、赤い椿の花がお似合いのように思います。その寒さの終焉を告げるように、椿は花ごと落ちます。

 ほのかに漂う香りをもつ沈丁花や、おいしそうな乳白色の木蓮も春の到来を感じさせてはくれますが、赤子がいつ立つか、いつ立つかと心待ちする親心のように、桜前線の北上を気にしながらこの季節にそよぐ空気の暖かさを肌身に感じる。一斉に咲き誇る花の勢いと、それほど強さを主張しない花の淡さも手伝って、私たちは新しい年度に立ち、歩み始める秘めた思いを確かめるのだろうと思います。

 さくらさくらさくさくらちるさくら

 有名な山頭火の句です。「さくさくら ちるさくら」、咲くさくらもあるし、散るさくらもある。「さくらさく さくらちる」、さくらが咲き、そして散っていく。前者は、いろいろなさくらのありようを、後者はさくらの移り変わりを表している、前者は空間を、後者は時間を読む人に感じさせる、そんな印象をもちます。でも、どちらもさくらです。一年のこの時期に、私たちに春の訪れと気もちを新たにすることを投げかけるさくらの淡さです。

2014年02月28日

自分を出さないことです

posted by JIEL STAFF at 18:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林 芳孝

 2月に入って中ごろのこと。週末だったと思いますが、テレビをつけました。

 「和風総本家」。昼の放映だったので、再放送だと思います。その回の特集は、日本の職人さん、なかでも修復再生をする職人さんの特集でした。

 長野に住むご夫婦が、子どものためにおばあちゃんから譲り受けた雛人形を飾ろうとしたのですが、ものが古いせいでお内裏雛の顔がはがれています。そこで修復を依頼します。

 依頼先は、京都の職人さん。「治せないものはありません」。修復歴数十年の腕前です。まずははがれかかっている顔の部分をていねいにはがします。その後、顔料なのか染料なのかわかりませんが、白い液体を塗っては乾かし、塗っては乾かしして、重ね塗りをしていきます。そして、顔を描きます。筆を入れ、眉、目、口が出来上がります。

 「気をつけていることはありますか」の問いに、職人さんが答えます。

 「自分を出さないことです」

 職人さんの仕事は修復することであり、そこに自分を出すと自分の思いや美意識、価値観などが出て、「こうしたらもっと素晴らしいものになる」とか「前よりもいいものになる」というようなことが起こるのでしょう。元あったものに忠実に仕上げていく。そこが職人さんの職人たるところなんだろうな、と思いました。

 修復するわけではありませんが、ファシリテーターもそこから学ぶことがあるように思います。ファシリテーターも人の子で、「こうしたらいいのに」、とか「この人にとって良かれと思って」といった気もちが起こります。言うべきか、言わないべきか、言うとしてどんなふうに言うか、そのことばのその人への、そして他の人やグループへの影響はどうか、など頭の中をぐるぐる回ります。

修復ということばがここでは適切ではないかもしれませんが、もし修復する、修正するとするならば、その人本人の思いと意志で修めていく。「自分を出さない」というより、「自分の思いや美意識、価値観などを押しつけない」。そんな職人さんになりたいです。

2014年01月31日

大空小学校

posted by JIEL STAFF at 21:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林 芳孝
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 なぜそうなるのかはわかりませんが、与えられるべきときに与えられるものが下りてくることが
あります。1月18日の土曜日のお昼にたまたまつけたテレビの番組がそうでした。

 関西テレビ制作のドキュメンタリー「みんなの学校」です。文化庁芸術祭のテレビ・ドキュメン
タリー部門で大賞を受賞しました。映像の場所は、大阪市立南住吉大空小学校です。この学校は、
特別支援の対象となる子どもも同じ教室で学んでいる学校です。

 ある日、K君が転校してきました。前の学校の校長先生が、うちではどうにも預かれない、とか
で移ってきたのです。あの子がいくならうちの子は行かせたくない、という親もいたそうです。

 K君が転校して1日目、2日目。とくに問題なく一日が終わります。何日か経ち、K君が学校から
いなくなった、という一報が校長室に入ります。先生が見つけて教室に連れ戻しました。校長の木
村泰子先生がクラスの全員を集め、自身は教壇にすわってみんなに問いかけます。

「なにがあったん?」

子どもたちが順番に言っていくと、ひとりの子が「なんでこんな問題わからへんの?と言った」と
言います。木村先生は言います、「そりゃわからへんやろ。K君は長いこと病院に入院してて、学
校行ってへんし。…」。

普通に考えると、まずK君になぜ学校を飛び出したのかを問うことのほうが多いのではないでしょ
うか。場合によっては、責めたりもする。でも、木村先生はK君にそれについてはひと言もふれま
せん。「コンテントとプロセス」という視点で見ると、木村先生はコンテントにはそれほどふれず
に子どもたちの間でなにが起こったのか、そのプロセスに焦点を当てている、そう思いました。

別の日、K君が校長室に連れてこられます。K君はクラスの子に殴りかかったのでした。木村先生
が言います、「先生なあ、心配やねん、だれがってK君のことがやで。K君なぁ、教室に戻りたな
いなら、ここで勉強してもええねんで。どうする?教室に戻るか?」。K君は教室に戻りました。
教室に戻ると、K君に殴られた子が今度はK君めがけて殴り始めました。K君は返すことなく殴ら
れっぱなしでした。

この場面でも、木村先生はK君に対して「なんで人をなぐるねん?」とか「そんなことしたらあか
んやろ」とかは一切言いませんでした。言ったのはK君に対してのご自身の気もちでした。

数日後、授業参観の日です。一人ひとりが前に立ち、順番に自分の夢を話します。「医者になりた
い」とある女の子が言います。「お父さんが床屋をしているから、床屋をやります」と男の子。K
君の番です。

「暴力はふるいません、暴言ははきません」。頬に涙を流しながらK君は言いました。

木村泰子校長先生。本当に感動しました。もしできるなら、来年度の南山大学人間関係研究セン
ターの公開講演会にお招きして、直接お話をお聞きしたい、と思うのですが、津村センター長、い
かがでしょうか?