2015年04月14日

今度こそは

posted by JIEL STAFF at 20:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 岡田 衣津子

2月の中旬からダイエットを開始しました。そんな内容をこのブログに書くのはいったい何度目でしょうか…。糖質制限や加圧トレーニングなど、ちょっとやっては断念することを繰り返しました。まったくお恥ずかしいことです。ある知人とダイエットの話をしていたとき、私が「やせられたとしてもそれを維持できるかが不安」と話したとき、「そういうことはやせてから心配しなよ」と言われました。かなりきつい言葉でしたが、まったく正論でした。正論過ぎて何も言えず、やってやろうじゃん!と本気モードにさせてくれました。

ダイエット方法はシンプルに「食べないこと」です。11食はしっかり食べますが、あとの2食はプロテインドリンクと栄養補助のサプリメントをいただいています。始めた当初はかなりつらかったです。今もおなかがキュルキュルなっていて、常におなかがすいている感じがあります。そういう感覚もだんだん慣れてきました。そして結果は2カ月で8キロ減。私にしてみれば快挙です。11食はかなり吟味して選びます。何も考えずに食べたいものを食べていたときは、何を食べてもそんなに満足しませんでした。食べても食べてもまだ食べたいような衝動がありました。ストレスを発散するために食べることに依存していたような気持ちすらします。

やせて健康になることが目的でしたが、おいしく食べることの大切さを知ることや女性らしいおしゃれを楽しむことなど、思わぬ素敵なおまけをいただいています。今度こそはやりますよ、私。

 

2014年10月13日

万年筆はいいね

posted by JIEL STAFF at 20:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 岡田 衣津子
小学生のころか、中学校入学のときか、いつだったか定かではないが、父から万年筆
をもらった。父はモンブランの万年筆を愛用していて、父のデスクにはダークブルー
のインク瓶がおいてあったのを覚えている。なんかとってもかっこいいなと思ってい
た。しかし万年筆など子どもの頃の私にはまったく必要ないもので、いくら高価なも
のだと言われても、あまりうれしくなかった。高価だからこそ使うのが怖いなと思っ
ていた。そういうわけでずっとどこかにしまいこんでいた。

ずーっと忘れていたのに、近頃、その万年筆が見つかった。[MONTBLANC noblesse]
と書いてあった。「高貴な」という名前がついたその万年筆は細身で重量感がある。
添えてあったインクカートリッジのインクが未使用なのに半分以上も減っていた。そ
れは私がもらったまま放置していた年月の長さを物語っていた。久しぶりに父親に出
会ったような感慨があった。インターネットで検索しても、もうこのタイプの万年筆
は製造していないようで、インクをどう入れたらいいのか、古いインクカートリッジ
を使っていいのか心配だったので、万年筆の専門店に行った。店主と思われる品のあ
る年配の男性に状態をみてもらった。「これは高価な万年筆ですよ。大切に使ってく
ださい。お手入れすれば長く持ちますよ」と言ってくださった。その優しい言葉に、
父との思い出も大切にしてもらったようで、私はとても満ち足りた気持ちになった。

今から思えばなんで父は子供私にこの万年筆を贈ったのか不思議でならない。道具は
人を選ぶということか、30年以上も経ってようやく使わせてもらえるようになった。
力を入れなくてもすべるような書き心地がとてもいい。お父さん、今度こそ大切にし
ます…万年筆はいいですね。

2014年09月14日

学びの秋

posted by JIEL STAFF at 09:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 岡田 衣津子
この夏の大きな出来事はやはり、入院と手術、療養でした。ゆっくり休みました。休
み過ぎてなんだか自分が世の中から必要とされていないんじゃないかというような思
いにとらわれておりました。しかし、体調の回復、行動範囲の拡がり、仕事復帰とと
もに、そのような思いも消え去り、元気に生きています。からだとこころはつながっ
ているんだなと実感しました。

6月から金沢工業大学虎ノ門大学院の「イノベーションファシリテーション特講」と
いう科目を履修しています。簡単に言えばフューチャーセッションのファシリテー
ターを養成するもので、『フュチャーセンターをつくろう』の著者である野村恭彦先
生が担当されています。2週間に1度、虎ノ門ヒルズを横目に見ながら、通っていま
す。もう何回か受講しているのですが、フュチャーセンターやフュチャーセッション
とはどういうものかを自分の言葉で表現することが難しいです。あえて言うなら、
「予測不可能な未来について、ステークホルダーが集い対話をし、関係性を構築しな
がら豊かなアイディアを共有し、アクションを支援する場」というところでしょう
か。今はその方法論を学ぶことに忙しく、なんのためにどうしてやるのかとかフュ
チャーセッションのスピリッツのようなところを理解できていません。自分がしてい
ることを信じて、学び続けるしかないと思っております。

先日、授業終了後に野村先生とお話しする機会がありました。いろいろお話ししまし
たが、一番印象深かったのは「ファシリテーターは多様なステークホルダーのみなさ
んをいかに愛せるか、が大事なんですよね」という言葉でした。私が今まで体験した
ファシリテーションの場に来られる方々はほぼ学びたい意欲を持ち、好意的に受け入
れてくれる方ばかりで、いつも受講生のみなさんに助けられていることを感じていま
す。しかし、フューチャーセッションはテーマに関心を持つ人という共通した事柄は
ありながらも、どんな背景やニーズを持った人が来られるか、あらかじめわかりませ
ん。どんな方であれ、未来の創造性を生み出す人として一人ひとりを大切にできる
か、いかに関係性を築いていけるか、とても難しいことです。そして、自分と意見や
感覚が違うことを排除したり批判するのではなく、豊かなアイディアとして認識し意
見を傾聴できるかがキーだなと思いました。

私はソーシャルワーカーとして、社会で起こっているさまざまな問題をいかに解決で
きるかに関心があります。そしてその手がかりとして、住民がファシリテーションの
視点を持つことだと思っています。そんういう私が多様性のある人々を愛せるのだろ
うか…自分の視野の狭さを思い知らされる秋の一日でした。

2014年08月12日

プロセスをみて、プロセスにはたらきかける

posted by JIEL STAFF at 21:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 岡田 衣津子
久しぶりにブログに書きます。というのも、今ちょっと時間的に余裕があるのです。
時間的に余裕がなくても書かなくてはいけないのですが…

以前、書いたように、子宮筋腫ができておりまして、いよいよその除去手術を明日に控えております。いろいろ不安もありましたが、今となれば、なるようにしかなりません。それより退院後、自分のおなか周りがすっきりしているといいなとか、何キロ痩せるかなとかそんなことしか考えていません。AIアプローチを学んだ効果でしょうか?

ちょっと前までは精神科のソーシャルワーカーとして医療機関に勤務していたためか、スタッフの対応には非常に気になります。説明の仕方とか、姿勢とか、評価的にみてしまいます。事前に紙に書いたのに外来通院の時も話したのに同じことを何度も聞かれるなとか…なかなか患者さんになりきれません。先ほども医師から手術の説明を受けました。納得のいかないことがいくつか出てきました。でも今さら文句を言っても入院しちゃったし、と思うようなことです。私は感情が表情に出やすい人なので、私の顔を見て医師はそれをキャッチしたように見受けられました。そして「質問はありませんか?」と聞かれました。私は質問ではなく文句が言いたかったので、「質問はありません」と答えました。「では、ここにサインしてください」と言われ、私は釈然としない思いのまま、同意書にサインをしました。病院として患者にサインをさせるための説明だったんだなと思いました。

私が医師の立場だったら、「何か心配なことはありますか?」とか「今、ちょっと表情が変わったようにみえたのですが、何かありましたか?」と聞くだろうかなどと病室に帰って想像しました。どこに注目してどのように関わるか、たくさんの可能性があるなと思いました。しかし、病院にはたくさんの患者さんが入院していますし、診療報酬などの関係で長く入院できないシステムが出来てしまうと、一人ひとりを大切にして向き合うという感覚は薄れてしまうのかもしれません。プロセスに働きかけることは時にめんどうでややこしいことを引き起こす可能性があるので、事務的にしゅくしゅくと進めていく方が効率的ですから。でもそれでいいのか?入院することなど一生のうちに何度もあることではないし、不安や恐れなどの気持ちが起きやすい状況の中で、大切にしてもらえた、理解してもらえたという経験は一生の思い出になると思います。またその逆もありますが。

研究員の杉山さんと一緒に何年か続けているある看護学校の人間関係論の授業をはじめ、看護師さんを対象とした研修を担当することがありますが、今後、「プロセスをみて、プロセスにはたらきかける」ことに今まで以上に思いをこめて関わっていけるような気がしています。

2014年03月16日

最初の思いは…

posted by JIEL STAFF at 11:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 岡田 衣津子

先日、JIELの研究員の杉山さんが私の職場である専門学校で1日アサーショントレーニングを実施してくださいました。学生にとっては最後の授業でしたし、1年間育てた学生を信頼できる仲間が来て授業をしてくれるということで、とても楽しみにしていました。事前に学生にも告知したり、杉山さんとも打ち合わせをして準備をしました。しかし当日2名の学生が来ませんでした。しかも1人は無断欠席です。また1人の学生は来たのに1コマ目が終了後、帰ると言い出しました。理由を聞くと「アパートのカギをとりに行かなくてはいけない」と言うのです。4月からの新生活に向けていろいろ準備があることは私も理解できますが、何もこの日を選ばなくてもいいのではないか?と思いましたが、今さら言っても仕方がありません。何より講師の杉山さんに申し訳なく、恥ずかしい思いが湧いてきました。休憩中に教務室に戻り、同じ学科の教員に状況を報告したところ「どうせあいつらはそんなもんですよ。」と言われました。かちんと来たので「担任に、出られるなら出ろと言われていると学生は言ってましたよ。先生がその程度なら当然学生は来ませんよね。」とかなり語気を荒げて言ってしまいました。その後もしばらくやりとりは続いたのですが、休憩時間が終わりそうだったので、私は勝手に「そういう状況ですから」とやり取りを終わらせ、教室に戻りました。教室では学生が「アサーションは難しい」「頭ではわかるけど、私は普段どうなのかな?」と言いながらも、一生懸命取り組んでいました。その姿を見て、ふと我に返りました。参加しないたった3人の学生のことばかりが頭の中を占めていましたが、大部分の学生はしっかり取り組んでいるのです。参加した学生が自分の学びを獲得できるために動くべきだと考え直しました。さらに、私は怒りの感情をむき出しにして同僚に関わりました。アサーションで言えばアグレッシブに表現しましたが、相手はノンアサーティブになるか、同様にアグレッシブになるかのどちらかなのです。いずれにしても関わりの後味は悪いものでした。私は怒りの表現をしましたが、最初の思いは怒りではありませんでした。私にとっては大切な学生で、これから社会に出るために学んでおくといいと思って企画した、いわばはなむけの授業です。この思いが学生にも他の教員にも伝わっていなかったことが「残念」だったのでした。その最初の思いに尾ひれがついて怒りに変わっていきました。でも「残念です」という最初の思いを伝えていれば、あんなにアグレッシブなやりとりをしなくて済んだのに…それがまた「残念」でした。アサーティブになるのはやっぱり難しいなと思いました。でも気づけて良かったです。学生以上に私がいちばん学んだのではないかと思います。

アサーションは率直に自分の思いを表現すればいいということではありません。時には率直に表現しないことを選択することがあってもいいし、こういう言い方をすればアサーティブになれるという特効薬もないと思います。相手との関わりの中で、自分の表現が相手にどんな影響を与えているか、また相手から与えられているかをしっかりみることが大切だと思います。前回の水野さんの話をかぶってしまいますが、やはりアサーションは単なる表現の技術ではなく相手との関わりであるということを痛感した出来事でした。

2014年02月15日

自分のからだは自分で守る

posted by JIEL STAFF at 01:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 岡田 衣津子

意を決して、今年の夏に手術を受けることにした。ここ1年以上も子宮筋腫をほったらかししていたので、おなかがせり出し、見た目にもわかるほどの大きさになったからだ。

病院に勤めていたくせに病院は苦手だ。病院というより医師が苦手だ。案の定、「ここまで大きくなってる人を久しぶりに見たよ」と大笑いする医師、かなり配慮にかけたことばをさらっと言う医師に出会った。全員がそうだとは言わないが、医師こそ人間関係トレーニングを受けた方がいいのではないかと思ったりする。こんな不愉快な思いをするくらいなら通院せず、このまま放置したくなるのだが、腰は痛くなるし、ちょっと小走りしただけで息が切れるし、体への負担が大きい。

子宮筋腫は女性にとってちょっと恥ずかしい病気のように感じる。インターネットや本などで調べると、原因は不明とはいいつつも、不摂生とか食べ過ぎの影響が大きいらしいと書いてある。確かにそうなのだ。食べすぎ、不摂生、思い当たるふしがありすぎる。ウイルス感染とか遺伝とかでもなく、自分が自分で作り出したものなのだ。とはいえでも不摂生したくしてしていたわけではなく、そうせざるを得なかったのである。自分の体や自分の生活は多少犠牲にしても、やらねばならないことを一生懸命こなしてきたのだ。そんな背景を知らずとなぜ医師は私を笑う?なぜ心無い言葉をはかれなければならないのか?

こういう怒りやネガティブな思いをためこんでためこんで表出しないことも筋腫を大きくしてしまう要因かもしれないなと思う。自分のからだは自分で守らなければならない。誰も守ってくれないのだから。早めに就寝すること、バランスのとれた食事、無理のない仕事量、嫌なことはできるだけ避ける、ネガティブな思いもアサーティブに表現する…身を守る方法を考えてたらいろいろ自分に課す事柄が多くなってしまった。ま、結局のところ、あんまり考え過ぎず、楽しく生活することがいちばんからだにはいいのかもしれない。

2013年10月14日

永遠に続く…

posted by JIEL STAFF at 22:27 | Comment(1) | TrackBack(0) | 岡田 衣津子

10月に入って、少し過ごしやすくなりましたが、それでも日中は暑いですね。毎日半そで+カーディガンの装いで今の季節をしのいでいます。

先日は、式年遷宮で伊勢神宮が盛り上がっていましたね。テレビでも伊勢および伊勢神宮を扱った旅番組をいくつか見ました。そういえば、私たちJIELの夏合宿は伊勢でした。帰りはたまたま御白石持行事をしているところを車で通りました。交通渋滞を恐れて、本当にさっと通っただけですが、記念すべき行事に少し立ち合えて、なんだかありがたかったです。

しかし、20年前ってこんなんだっけ?とふと考えてしまいました。20年前の私はすでに成人しているので、記憶にないはずはないのですが、盛り上がり方が違っていないでしょうか?もしかしたら、その当時はまだ浜松で暮らしていたからなのか?いずれにしても式年遷宮とは大変な行事なんだということが今回でよく分かりました。何年も前からこの時のために準備を進めているんですから。今回の式年遷宮が62回目ということなので、1300年くらい前から続けられていて、おそらくこれからもずっと続いていくでしょう。過去から脈々と流れる歴史の中で、自分が生きている期間なんてほんとにちょっとしたものなんだなと思います。だからこそ、今を一生懸命生きなければという思いにもなります。それがなかなかできないのですが…

先日美容院で同い年の美容師さんに髪を切ってもらいながら、しみじみ話をしました。「7年後にはオリンピック、14年後にはリニア新幹線開通、そうこうしているうちに次の式年遷宮ですよ」そのころの私はどうなっているんだろう…とりあえず健康でイキイキ楽しく生きていたらいいのにな。

2013年07月15日

きいてる?

posted by JIEL STAFF at 22:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 岡田 衣津子
 この7月は職場のみならず、あちこちの現場で体験学習のファシリテーターをしています。慣れない場所ではとても疲れます。以前、脳科学者の茂木健一郎氏が何かのテレビで「自分をアウェーな場に置くことが脳にはとてもいい」と話していましたが、まさに今脳にいいことをしているなと感じる日々です。
 ある専門学校では、とても元気な学生さんたちがいます。元気なのはいいのですが、実におしゃべりが多い。なにかするたびにおしゃべりを始めます。おそらくそれは授業とは関係のないことのようです。そういう関係ないおしゃべりがグループの雰囲気をよくしていたり、互いに仲良くなったりするのかもしれないので、一概にダメとは言いきれませんが、まじめにやろうとしている学生さんのことを思えば、「静かにしてね」と何度も言わなくてはいけない。いずれにしても実に心苦しいです。「しゃべるな!」とか「静かにしろ!」ときつい口調で注意したり、ちゃんと前を向かせて聞く態勢をとればいいのかもしれないですが、それをしてしまうのは、なんか違う気がする。とても迷うところです。
 しかし、よく見ていると私の話だけを聞いていないのではなく、グループの仲間の話を聞いているのかな?と思う場面があります。目の前にいる相手が話しているのに目を合わさず自分の髪の毛の枝毛を探しているとか、まだしゃべっている人がいるのにかぶせるように自分の話をするとか…自分がしていることが相手にどんな影響を及ぼしているのか分かっているのかな?相手の話も音声では聞こえているのでしょうが、本当に「きく」とか「きいてもらう」ということの経験は少ないのかな?と思います。なんとか気づいてもらえないかと私が見ていたことをフィードバックしてみたりしますが、なんとなく注意したように受け取られただろうかと考えたり…試行錯誤をしています。
 つい先日、ホームである専門学校で授業をしていたら、びっくりするくらい静かで学生の反応がありません。「私は人に向かって話していると思えないんだけど、聞いてる?」と思わず聞いてしまいました。少しぐらいおしゃべりしてくれてた方がまだいいかなと思ったりして…

2013年06月15日

小さな幸せ

posted by JIEL STAFF at 00:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 岡田 衣津子

おかげさまで、忙しい日々を過ごしています。私は専門学校の教員なので、学生に授業をするのが仕事です。今年は夜間部が開講したので、単純に昨年の2倍の授業をこなさなければなりません。当然帰る時間も遅くなります。授業をするにも準備が必要です。昨年と全く同じ内容では進歩がないし、社会情勢は日々変化するからです。新聞を読んだり関連する書籍を読む時間もなかなかありません。やらなければならないことをこなすことで精一杯の毎日を送っていると、楽しみなのは夏休みぐらいなものです。「早く夏休みにならないかな〜」小学校低学年の子どものようなことを思っています。夏休みまで1か月半。やることはやらなければ終わらないのでやるしかないのです。アップアップしながらも…

人のことがうらやましくなります。旅行に行ったとか、新しくできたレストランに行ったとか、友だちと飲みに行ったとか、おいしいものを食べたとか…特にフェイスブックを見ていると「いいね」を押しながらも、なんともやるせない気分になります。もちろんフェイスブックに投稿する内容はその人の生活の一部分なのですが…。こんなにぼやいてばかりの自分も嫌になります。前向きに楽しく、今の状態をとらえられるといいのですが、元来私はネガティブ思考のようです。

「毎日の生活の中でささいなことでも幸せを見つけていける人になりたいです」

これは私が小学5年生の時に夏休みの宿題で書いた『大草原の小さな家』の読書感想文の最後の一文です。ふと先日思い出しました。『大草原の小さな家』の主人公ローラの一家は貧しいのですが、実に豊かで楽しそうな生活でした。屋根裏部屋とかお母さんのつくるふかふかパンとか、クローバーの王冠とか、日曜は一家でおしゃれして教会に行くとか…私の憧れでした。経済的な貧しさの中でも幸せかどうかを感じるのは、結局自分次第ということを子どもなりに読み取ったのでしょう。しかし、なんでこの文章を思い出したのか?よく分からないのですが、小学5年生の私から今の私への忠告のようにも感じます。小さな幸せを意識して見つけていくと、案外毎日は楽しくなっていくのかもしれません。

2013年05月13日

ねらいとわたし

posted by JIEL STAFF at 23:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 岡田 衣津子
先週末の土日2日間、グループトレーニング研究会のトレーナートレーニングに参加しました。
Tセッションが始まる前に全体会があって、今日の自分のねらいを立てました。参加者全員が自分のねらいを紙に書いてセッションルームに貼りました。私のねらいは「グループの中で起こっていることをよくみる。率直に動く」です。ねらいを書いて貼りだすこと自体、私にとって珍しいことではありません。しかし、今回はどうもいつもと感じが違いました。グループに起こっているプロセスをよく見ていると、自分の気持ちが置き去りにされてしまったようで、身動きがとれません。何か行動することにためらい出て、まるでねらいが私の行動を制限するようでした。
2日目はこの反省を生かし、別のねらいを立てました。そして同様に全員が紙に書いて貼りました。「やりたいと思ったことはやってみる」というシンプルなねらいです。でも「今、本当にやりたいことなのか?」と自分に問うと、何も動けなくなってしまいます。ねらいの紙は他のメンバーにも見えるので「やりたいことやってるの?」と思われないかということも気になりました。
メンバーの中の一人の方が「ねらいは私を後押ししてくれるもの」「ねらいは困った時によりどころになるもの」と話していました。ねらいと仲が良いんだなと思いました。私にとってねらいは「しなくてはいけないこと」であり、「ちゃんとやってるのか?」とチェックしにくる嫌なやつ…。仲良しどころか、ちょっとうっとうしく感じていることがよく認識できました。普段、授業の最初などに、学生にねらいを立ててもらう時には必ず、できそうにないねらいよりはがんばればできそうなものを、ときどき見返すと楽しくなったり元気になったりできそうなものを、と言います。しかし、私自身は学生に言っていることができていませんでした。人に言うのは簡単ですが、自分のこととなると、そうはいかないものです。
ねらいと仲良くなれないだろうか…。少なくとも一緒にいて楽なものにならないだろうか…と思います。そのためには、立てるねらいを変えればいいのか、ねらいのとらえ方を変えればいいのか、起きた結果にあまり固執しないことなのか…今はよくわかりません。しばらくは機会あるたびに、ねらいと私の関わりを意識してみようと思います。

2013年03月16日

糖質制限

posted by JIEL STAFF at 23:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 岡田 衣津子
「ぶっちゃけ聞きますけど、岡田さんって今クッキーとか食べられないんですよね?」と先日男性の同僚に聞かれました。最初は何を尋ねられているのか分かりませんでしたが、ホワイトデーのお返しはクッキーではない方がいいですね、と確認してくださったのでした。心遣いに感謝しつつも、とても申し訳ない気持ちがしました。
今、私は糖質制限ダイエットの真っ只中です。砂糖のたっぷり入ったお菓子のみならず、お米や小麦粉などのでんぷん類も摂取しないようにしています。つまり主食は野菜と肉や野菜、豆類ということです。スタートしてから、かれこれ1か月になり、おかげさまで着実に成果があらわれています。しかしそろそろこんな生活も苦しくなってきました。食べられるものはたくさんあるはずなのに、この世は糖質であふれています。チョコレートもケーキも大福も、パンもおにぎりも、デパ地下もコンビニも、テレビを見ていてさえも…。
ちょっとぐらいいいんじゃないと優しく勧めてくださる人もいます。糖質制限よりカロリー制限した方がいいという人もいます。こんな人の意見を聞いていることさえ、ちょっとしんどくなる時もあります誰かと一緒に食事をする際には、ごはんや麺類を食べないよう私に合わせてくださる人もいて、ずいぶん気を遣わせているとも思います。こんなにまでして糖質制限を続ける必要があるのか?と思います。糖質を制限することではなく、ダイエットするという本来の目的をわすれてしまいそうです。
そういえば体験学習でもねらいが大事ですね。さまざまな人との関わりの中で生きる私たちは、自分も含めいろいろな影響を受けて生きています。その影響にときにはふりまわされてしまいます。そんなときにねらいはそもそも何のために私がこの場で生きているのかを思いださせてくれます。いろいろなものやいろいろな人に影響を受けながら、あともうちょっと糖質制限を頑張ってみます。

2013年02月14日

花が好き

posted by JIEL STAFF at 22:23 | Comment(1) | TrackBack(0) | 岡田 衣津子
 今日は仕事で外出していました。
 風もなくあたたかな名古屋でした。庭先の梅のつぼみが濃いピンク色になり、少し緩んだように見えました。名前はわからないけど、桜を小ぶりにしたような花が咲いていました。お花屋さんにはピンクや紫や黄色など鮮やかな色のスイトピーが競うように咲いています。思わず私の顔も緩んでいるのがわかりました。花は大好きです。なんでこんなに心を和ませてくれるのでしょう。
 私の家は猫を飼っていて、室内には基本的に植物がありません。観葉植物はかなり毒性が強く誤って食べてしまうと大変なことになるからです。猫には関係のないトイレにだけ、母が買ってくるリーズナブルな切り花が飾られています。今までは水仙やフリージアとか冬の花でしたが、今日はサーモンピンクのバラが飾ってありました。一気に春が訪れたようでした。でもトイレじゃかわいそう…そう思っているのは私だけかな。花はそんなこと全然思いもせず、ただそこにいて生きているだけなのでしょうね。
 以前、私が尊敬する先生と一緒に見たハスの花を思い出します。かなり広大なハス池で、二人で池の周りを散策しながらいろいろな話をしていました。太陽の光を浴びて大きく開く花、葉っぱの下に隠れてひっそり咲く花、盛りが過ぎてしおれかかっている花、今にも開きそうなふくらんだつぼみ…いろいろなありようの花を眺めながら、「どんな花もきれいねぇ」と先生はおっしゃいました。先生の人間観と重なりました。
 これからの季節、本当に楽しみで心が弾みます。みなさんはどんな花が好きですか?

2013年01月14日

年末の体験から

posted by JIEL STAFF at 12:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 岡田 衣津子
 四十肩がなかなか治らないので、年末に近所の治療院にいきました。健康なので、ちょっと体調が悪いくらいで病院に行くことはないのですが、腕や指先の方までしびれるときがあり、これは尋常ではないと思い、やっと治療を受けることにしました。近所なのに、長い道のりでした。先生は「こんなになるまでよく頑張りましたね」とか「こんなに肩ががちがちで頭痛とか息苦しさとかないですか?」とかおっしゃるのですが、どうも私にはピンとこないのです。私は四十肩で肩が痛いだけで頑張ったという意識はなく、頭痛も息苦しさもありません。「はぁ、そうですかね〜」と中途半端な返事をしていました。先生が背中をマッサージしてくださったとき、私の背中がとても冷たくなっていたことがわかりました。マッサージのおかげで氷が解けるように自分の体温が戻ってくるようで、治療が終わるころには、頭痛がしてきました。今まで目に見えない硬い殻で覆われていたように感じました。傷つかないように、ストレスに感じないように、私のからだは薄い膜を何枚も重ねていって、それが殻のように硬くなったのかなと想像しました。その日の夜はよく眠れました。肩の痛みや手のしびれがなくなったわけではありませんが、自分のからだに意識が向くようになりました。これも先生にマッサージをしていただいたことがきっかけです。
 この体験は「他者の存在があるから自分に気づくことができる」ということを改めて考えさせてくれました。誰かのちょっとした働きかけやフィードバックは私を知る手掛かりになるということです。私は自分のことぐらい自分でわかっているくらいにいつのまにか感じていましたが、これからは他者のことばをしっかり受けとめられるようになりたいし、他者への働きかけやフィードバックをもっと丁寧に提供できる自分で居たいと思いました。それと、もっと自分のからだに向き合い、いたわっていきたいと思います。

2012年12月16日

怒りを言葉に

posted by JIEL STAFF at 10:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 岡田 衣津子

街中で大声で怒っているおじさんに出会いました。怒りの矛先は2人の男子高校生。恐らく駅に通じる階段に座り込んでいたからどきなさいと言っているのでしょうが、「ばかやろう」とか「いい加減にしろ」などという言葉しか聞こえないので本当は何が伝えたいのかよくわかりません。男子高校生もさっさとどけばいいのに小声で「うるせーなー」と言っているので、おじさんの怒りに拍車をかけているようでした。おじさんの怒りはごもっとも、でもそんなに怒鳴らなくてもいいのに、と少し嫌な気分になりました。言いたいことはわかりやすく言葉にして話さないと相手には全く伝わらないなぁと思いました。

今年の初めに「体重2割減」という目標を掲げたことを思い出しました。気が付けば12月。もう2割減どころか、現状維持もままならぬ状況です。目標値を下方修正するか、とも考えましたが、今年度中まで延期することにしました。私の得意な先送りです。ま、それでも少し気をつけないとと思い、加圧トレーニングのジムに通い始めました。ジムは自宅から歩いて行けるので便利なのですが、どうも対応が悪いのです。客である私に全く関心がないんだなということを感じます。でもたくさんいる客の1人なので仕方ないのかなと思っていました。先週トレーニングに行ったときに、たいして混んでもいないのに、混雑しているからとウォーキングマシーンの使用を20分間でと制限されました。しかし、あとから来た人には制限をかけていないのです。私は嫌われているのか?と思いました。もう二度と行かないと思うのですが、どうせやめるならダメージを与えてやめたいとあれこれ考えていました。怒りが少しおさまると、なんでおかしいことはおかしいと抗議できなかった自分が情けなくなりました。今度はきっちり言葉で伝えるために、もう少し頑張ってみようと思います。そもそも私の目標は「今年度中に体重2割減」でした。公約は果たします。

 

2012年11月15日

終末へのカウントダウン

posted by JIEL STAFF at 07:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 岡田 衣津子

私は慢性的な肩こりで肩が痛いのは当たり前のことです。たまに鍼灸院やマッサージ屋に行きますが、たいてい「これはひどいですね」と言われます。そうですか〜といいつつもちょっと嬉しくもあります。なんだか自分ががんばっている証のようにも感じるからです。しかしここのところの肩の痛みは尋常ではなく、背中に手をまわすと激痛が走ります。これってもしや…と思いつつ母に相談すると、「それは五十肩だわ」と言われました。五十肩って…まだ五十ではありませんけど、やっぱりそうか、要するに老化現象の一つかということで、認めたくないけど認めざるをえなくなりました。母はちょっと得意気に五十肩の経験談を語るのですが、なんだか高齢者の仲間入りをしたみたいで全く嬉しくなく、否定したいような気持ちがしました。

視力に関しても同様です。メガネをかけていても、手元の文字が見にくくなりまさかと思いつつメガネをはずすととってもよく見える。これが老眼ってやつか…認めたくないけど事実は変わりません。筋肉痛も翌日以降に出現するし、風邪も治りにくくなったし、ダイエットしてもなかなかやせないし…身体には悲しい現象ばかり現れます。こうやって、ちょっとずつ老化現象が身体に現れてきて、ちょっとずつ死に向かっていることを「受け入れていきなさいよ」と神様から言われているようです。永遠に命はないので、今を一生懸命生きていかなければならないということを身体が語ってくれているのだと思うと、ちょっと自分が愛おしくなります。

2012年10月15日

欲望の代償

posted by JIEL STAFF at 21:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 岡田 衣津子

ずいぶん秋らしい季節になりました。この頃、近所を歩いていると、どこからともなく異臭が漂ってきます。ふと下を見ると、足で踏まれたのか、銀杏がぐちゃっと落ちてつぶれています。ふと見上げれば薄いオレンジ色の実がたわわに実っていて、枝が重そうにしなっています。枝を揺らして落としてあげたいような気持ちになりました。

こんな話を母親にしたところ、「いいねぇ、銀杏とりに行きたい!」という話になり、早朝6時に、散歩がてら採集しにいきました。朝の街路には落ちたばかりの銀杏の実がいたるところに落ちていて、コンビニの小さな袋を持って行ったのですが、あっという間に袋がいっぱいになりました。袋いっぱいになったのに、それでもまだぎゅうぎゅう詰めて、はちきれんばかりになりました。冷静に考えてみれば親子2人暮らしで、そんなに銀杏を消費することもないのですが、採ることに夢中になって、落ちている実はすべて採りつくしてしまいたいような欲求がむくむくと起こってくるのでした。

家に帰ると母親がゴム手袋をして半日以上も費やして、銀杏の果肉部分をはがし、タネだけを取り出して、天日干しをしました。恐ろしい異臭があたりに漂っていました。さぞかし近所迷惑だったでしょうね…。3日間の天日干しの後は、殻を割る作業が待っています。殻を割るための器具、その名も“銀杏坊主”を購入しました。殻がおもしろいほどバキバキ割れてちょっと楽しくなりました。そこから延々と3時間以上、私が殻を割り、母親が実を取り出す流れ作業が続きました。次はゆでる作業、そして薄皮を剥く作業と、ほとんど1日をかけて、ヒスイのような美しい銀杏の実が山のように出来上がりました。

これで冷凍しておけば正月まで大丈夫だね…と喜んでいたのもつかの間、翌日母親が銀杏にかぶれて顔中真っ赤になってしまいました。皮膚科に受診して「この時期、銀杏にかぶれる人多いんだよね。」と言われたそうです。実を食べてもかぶれることはないのですが、「顔の赤みが治るまでは銀杏のことを思い出すのも嫌」という感じの母親です。何事もほどほどにということでしょうか…。来年は“銀杏坊主”の出番がないかもしれないなぁ〜と少しさびしく感じています。

 

2012年09月14日

関係をつくること

posted by JIEL STAFF at 10:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 岡田 衣津子

ここのところ、精神保健福祉士の現場実習の巡回指導で、いくつかの病院や施設を訪問している。この残暑厳しい中での移動はだいぶ身にこたえるが、学生の顔をみると元気になる。学生にしてみると初めての現場実習で、精神疾患をもつ方々や現役の精神保健福祉士に初めてじっくり関わることができる機会なので、厳しい現実に涙したり、自分のコミュニケーション力のなさを痛感することになる。教員はそんな学生の思いをききながら、支持したり、課題を明確にしたり、現場の実習指導者から指摘されたことを伝えたりしている。

学生の話のなかでよく出てくるのは、当事者とのコミュニケーションがとれないということである。当事者を理解することが実習の課題の一つに掲げられているので、初めて出会った人にこんなこと聞いたら怒られないだろうか、不愉快な思いをさせないか、自分のせいで症状が悪化したらどうしよう…などと不安や恐れが先に立ってしまい、何もできないでいるというのだ。当事者を理解するということは、「苦しみを聞き出すこと」と勘違いしているのかなと思う。普段よく行く場所や好きな歌手や昔したかったこと、休みの日の過ごし方など自然な会話の中でもその人を理解することはできるし、何より相手から受ける印象や話を聴いていて自分の中に起こる気持ちなども相手を知る手掛かりになるのではないか。自分らしくいたらいいと…学生には語ってみたりする。

しかし、私はとても人見知りなので実は初対面の人と関わることはとても苦手である。何話せばいいんか…と困惑もする。困惑していることを見せないようにやたら笑顔でいたりする。だから学生には偉そうなことは言えない。自覚しているだけましか、と自分をなぐさめてみたりする。関わることが苦手と思う背景には、関係をつくることが上手だなぁと思っている人のイメージがある。私はその人には遠く及ばないと思うから、自分にはできない、苦手と思うのだ。当事者を理解しようとがんばるあまりに何もできない学生の姿と自分自身が重なり合ってしまう。自分らしくあればいい…それは自分自身にも言っている言葉なんだなぁと思う。

2012年08月13日

言い切ること

posted by JIEL STAFF at 14:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 岡田 衣津子
先日、名古屋市内の施設に学生と共に見学に行った。この施設は、地域の中のたまり場という感じで、誰もが無料で利用できる。住宅街の一角にある民家を改造してできており、開放的で家族的でなんとなくホッとするような空間であった。かねてより、まちづくりに関心がある私は、こういう場所が地域の中にあって、誰もが利用でき、関わり合いを持てるのは理想的だと思って、施設を見学できたことはうれしかったし、学びになった。
この施設を運営している方から、お話を伺うことができた。定年まで看護師として病院や施設などで働いた経験をもち、病院や施設こそが病人や障害者を生み出すということを感じ、信念を持ってこの施設を作ったというお話である。
歳を超えているというのに、非常にパワフルで、私には耳の痛い話がたくさんあった。「精神疾患は、医者がつくり出すものである」、「精神保健福祉士は精神疾患を心の病だと思っている」、「精神疾患は早寝・早起き・朝ご飯・運動・読書で治る」など…。その言葉の強さに圧倒されてしまった。さらに学生たちに向かって「あなた方は障害者だ。経済的な困窮ということはWHOの国際障害分類では障害と分類されている。わかった?あなたがたは障害者。」と話された。その時にはさすがに耳を塞ぎたくなった。学生たちはどういう思いで今の言葉を聞いたのだろうと心配にもなった。エビデンスがあって話しているとは思うが、ここまで言い切られると、情熱は攻撃になる。強く言い切ることができるだけ信念を持っている。だからこそ日本でも珍しい施設を立ち上げられたのだろう。しかし…。
私はかねてより言い切れる人はうらやましいと思っていた。私が自分の考えを話すときはたいてい「私は」という言葉を添えて話す。考えの背景にあることもなるべく伝えようとする。しかし、言い切れる人の言葉は強いし心に響く。しかし誤解もされし反発もあるだろう。言葉はもろ刃の剣である。私はやはり言い切る人がうらやましい。それだけ強い信念を持ちたい。でもそこには必ず相手がいることを忘れないでいたいと思った。

2012年07月14日

明るい未来

posted by JIEL STAFF at 16:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 岡田 衣津子

精神保健福祉士養成の援助技術の教科書には、たいてい「ストレングスアプローチ」というものが載っている。これがチャーズルAラップという人が提唱したソーシャルワークアプローチである。その著書『ストレングスモデル』では、「すべての人は目標や才能や自信を有しており、またすべての環境には、資源や人材や機会が内在していると見る」さらに「問題よりは可能性を、強制ではなく選択を、病気よりむしろ健康を見るようにする」と述べている。そして、この考え方はいまやソーシャルワーカーの価値観の1つとなっている。

しかし、私はいつも疑問に思っている。ソーシャルワーカーは当事者のストレングスを信じ、支援しようというのに、ワーカー自身は自分のストレングスを信じているのだろうか?少なくとも私は1つの理論としてストレングスアプローチを学んだが、自分のストレングスを認め促進していく方法は全く学んでいない。教科書にも書かれていない。自分をポジティブにとらえる視点はどうしたら獲得できるのかなぁと模索していた。そんなとき、AIアプローチに出会った。

先日、AIアプローチで行う「ハイポイントインタビュー」を授業で実施した。「イキイキした、キラキラした自分を見つけられるかな?」「私たちはそんな宝物をもっていて、そんな私たちに何ができるんだろう?」そんな問いかけをしながら、インタビューに取り組んでもらった。もしかしたら課題にのりきれない学生もいるかもしれないと危惧していたのは最初だけで、難しいね〜と言いつつも、実にイキイキと自分自身を語りだした。130分ずつ60分では足りずに20分延長したほどだ。

その後、数人でわかちあった後、全体でわかちあいをし、4人の学生が語ってくれた。そのうちの1人が精神保健福祉士になった未来の自分を想像して飛び込んできたニュースのタイトルを「精神障害者初の総理大臣」と語った。日本国民全員が障害者という概念さえ持たなくなるやさしい世界をつくりたいと…。彼らが語る言葉を聞きながら、私が想像している以上に学生たちはこの日本をなんとかしたい、自分が変えていきたいと思っているのかもしれないと、心が躍るようなワクワクした気分になった。思わず「私も仲間に入れてね」と言ってしまった。

こんな精神保健福祉士たちがいたら、明るい未来が待っているかもしれない。彼らと一緒にワクワクしながら、そのために何ができるかを考えていきたいと思う。

2012年06月15日

生活ってなんだろう?

posted by JIEL STAFF at 02:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 岡田 衣津子

今年から「精神保健福祉相談援助の基盤」という授業を担当することになった。「相談援助の基盤」というだけあり、原理・原則、価値・倫理ばかりが教科書に載っている。「自己決定」「人間の尊厳」「ノーマライゼーション」「権利擁護」「社会正義」「社会的包摂」などなど、なんとなく理解はできるけど、雲をつかむような実態があいまいなことばが並んでいる。

この授業を担当するようになって、言葉の意味をよく吟味するようになった。今一番気になっているのは「生活」。学生と関わる中で「生活体験の乏しさ」を感じることが多いからだ。当事者の生活を他人事のように捉える傾向がある。しかし生活ってなんだろう?…命を長らえること、日々のくらし、仕事をすること、衣食住、ライフイベント、健康、地域とのつながり…いくつか浮かんでくるものの、どれも生活の一部をきりとって表現しているだけで、生活とはこれだ!と言い当てることは難しい。精神保健福祉士は、当事者の疾患や障害にかかわるのではなく、生活者の視点で当事者の生活にかかわるというが、生活そのものがつかめないのだから情けない。

先日、私が一人暮らしを始めてずっと使用していた、2ドアの小さな冷蔵庫から3ドアの大きめ冷蔵庫に買い替えた。当たり前だが、容量が大きいし、野菜室があるし、チルド室もあり、しかも勝手に氷ができてしまう…。5000円で引き取られた過去の冷蔵庫は、三度の引っ越しに堪え、一度も故障せずよく働いてくれたが、やっぱり新しい冷蔵庫はいいものだ。あけるたびにワクワクしている。母親がしみじみと言った「氷がある生活って豊かだね」という言葉を聞いて、生活ってこういう感覚なんだよなと思った。

こんな言葉にならないような感覚は、いくら言葉を尽くして説明しても理解してもらうのは本当に難しい。でも学生と共に試行錯誤してみるしかない。